新潟へIターン転職!リンクチャネル鈴木さんが”端っこ”のその先に見るもの

東京から遠く離れた日本海側「端っこ」の地、新潟。
その“端っこ”に立ったとき、意外な広がりが見えてくることがあります。

新潟出身である私も新潟の海が大好きで、海岸でボーっと考え事をしたり、思考のデトックスをすることがあるのですが、同じような発想の方も多いのではないでしょうか?

今回お話を伺ったのは、Iターン転職で新潟へ移り住んだリンクチャネル株式会社の鈴木さん。
未経験からエンジニアのキャリアを歩み始め、休職や学び直しを経てたどり着いた新潟の暮らし。そこには、都市では気づけなかった“人との距離感”や、“自分自身との新しい向き合い方”があったようです。

この記事ではそんな鈴木さんの移住とキャリアのストーリーをご紹介します。あなたの中の、”ちょっとだけ凝り固まったもの”が解ける瞬間を、ひとときでも作り出せたら嬉しいです。

未経験からエンジニアへ。ファーストキャリアでの葛藤

——エンジニアとして転職した際に、新潟へIターンされた鈴木さん。なぜ新潟だったのか、その経緯を教えてください。

鈴木さん:実は、応募時に勤務地を見ていなかった、というのが正直な話です。。(笑)
勤務地が新潟ということに気づいたのは面談の直前で、ここまできたら断るのも悪いと思ったのでお話を伺うことにしました。

しかし業務内容を聞いてみると、この会社で働くイメージがつけやすく「ここで挑戦したい」と思う魅力的な環境でした。これも何かの縁だと思い、家族に相談した上でそのまま選考に挑むことにしたんです。

内定をいただいた際の提示条件は、当時の僕にとっては願ってもないオファーで、新潟の地で1人頑張るための覚悟を固めることができました。

 

——しかし、「部署移動」のような期限付きのものではなく「転職」ですから、当時の「ここで挑戦したい」には並々ならぬ覚悟があったのでしょうね。

鈴木さん:そうですね。。。
上越新幹線の終点、新潟駅のホームに降り立ったとき、「もう端っこまで来たんだ」と腹が決まった感覚がありました。

というのも、直前まで私は長期間休職をしていたんです。

「人生の再起」とまでは大袈裟ですが、それに近い感覚でエンジニア知識を学び直し、勇気を出して再就職を試みた時だったので、その流れの先にあった新潟の地には何か特別なものを感じていた気がします。

 

——ファーストキャリアからエンジニアをされていて、休職期間を経て自ら「学び直し」をしたのですね。

鈴木さん:はい。僕は文系学部出身で、情報系の知識にはほとんど触れてきませんでした。強いて言えば、オンラインゲームが好きでパソコンに少しだけ詳しいという程度。

就活するにあたって色々な職種を調べましたが、どの職種もイマイチしっくりこず自分ができそうなイメージがあまりにも湧かなくて。そんな中で「できそうかな」と唯一思えたのがIT系の仕事でした。

それから約8年かな。僕なりに必死に食らいつきましたが、元々情報系を学んできた人たちにどうしても実力で追いつくことができない。どこまで行っても先が見えないキャリアステップに疲れ切ってしまいました

次第に何がしたかったのかわからなくなり、いろんな想いと状況が重なって休職をすることになりました。

 

——しかし、その休職期間に学び直しをして再起を図ったとのことでしたが、そこに至るまでにはどんな変化があったのでしょう。

鈴木さん:休職期間は育児と家事をやっていました。と、言いたいところですが、育児と家事の方がむしろ自分にはキツかった。。。

後々で病名もつくのですが、それはさておき。僕には育児と家事もできなかったとなれば、家族にもかなり迷惑をかけ、もうどうしたらいいのか途方に暮れていました。

休職期間にも限界があったので、当時オンラインでつながっていた数年来のゲーム仲間に頼み込んで、週1でプログラミングを教えてもらうようになったんです。

 

——そのコミュニティが、当時の状況を前進させるための大きなきっかけとなったのですね。

鈴木さん:そうですね。「仕事だから」ではなく、ただ「自分がやりたいから学ぶ」という状況を作れたため、プログラミング知識もそこで初めてできるようになったことが多かったです。

それだけじゃなく、友人たちに知識を教えてもらうお返しに、僕は会場として使っていたシェアオフィスの共同キッチンで手料理を振る舞っていたんです。
みんなでご飯を食べて、また教えてもらいながら黙々と作業をしたりする。

それは今NINNOで定期開催している「ごはん会」や共有スペースでの過ごし方にも通じています。私はあの頃の経験から、初めて”楽しく働く”ことの術を教わったと思っています。

 

——働くことそのものの感覚が変わった経験ですね。

鈴木さん:そうですね。あの時のことは本当に今の自分にも大きく影響しています。

それまでの自分は、会社に属して“築き上げられた組織の信用”の中で生きていたと思うんです。でも、会社という箱を失ってからは、自分自身がこれまで築いてきた人との関係や信頼を使って動かざるを得なかった。

だからあのときは、自分が持っている資本も信用も全部切り崩した感覚があって、、、代わりに手に入れたものも大きかったと思いますが、言ってしまえば、それまでの自分を一度“使い切った”感じでした。

 

——築いてきた信用を「切り崩した」感覚になったのは、なぜでしょうか?

鈴木さん:元々、人と距離を詰めて支え合うことに、どことなく怯えていた節があるかもしれません。

関東で生まれ育った自分ですが、人が多い環境のせいか、人と密接に関わって自分のためになるような何かをすることって、それまで自分が貯めた信用を “得ては使う”ような感覚がありました。

その感覚は、新潟にIターンしてから変わり始めたと感じています。

 

四季うつろう新潟で見えた、新しい関係性のかたち

——新潟にきて、人と自分との向き合い方、距離の作り方にどんな変化があったのでしょうか。

鈴木さん:新潟に来てから、一歩踏み込んで積極的に人と関わりにいけるようになった気がします。それには、多分新潟の地域性などが影響しているんだと思います。
東京のような都会では、人がたくさんいる中に自分がいて、特に見向きもされていなければ、道ですれ違った見知らぬ人に自分が影響を与えていることもない。ただ、数えきれない中にいる自分でした。

しかし新潟で暮らすと、ふと散歩していたらばったり知り合いに出くわす。何気ない会話が生まれて、その人のちょっとした話が聞ける。また次に会ったときにそれに関する他の情報を話す。
そんなごく自然な人との距離ができていって、元々人付き合いが器用ではなかった自分が、意図して壁を作る必要がないと無意識のうちに安心している。

“貯めては使う”から“溜まっていく・増えていく”という感覚になった気がしています

 

——人との「自然な距離感」ができる、それも一つの“豊かさ”ですね。当初、「端っこまで来た」と感じた鈴木さんですが、人生における今とこれからをどのように考えていますか。

鈴木さん:新潟に来た時はここが地の果てのようにさえ思いましたが、当然、そんなことはありませんでした。

関屋浜からも、新潟空港からも、メディアシップからも、みなとタワーからも、いつ海を見ても佐渡島が見えますし、その先にも世界はある。また、昨年仕事で初めて海外に行くことも経験できました。果てだと思っていたところに来て、どんどんその先の世界があることを知り、東京にいた頃は自分で視野を狭めていたんだと気づきました

“人生のこれから”は、描けません。でも、道を描いている、描こうとしている人たちは周りに沢山いるので、そこから影響を受けながら少しでもその人達の力になりたいとは思っています。
面白そうなことがあったら、僕にも一枚噛ませてくれという、その思いこそが、人生のこれからですね。

今の僕は、それが言える距離感で関われている人が沢山いるので。

 

***

 

鈴木さんのお話を聞いていると、挑戦することだけが人生の正解ではないのだと思わされます。

少し見失っていた自分の時間を取り戻し、未来を壮大に描けなくても、明日のことをちょっと楽しみにできれば十分。
「今日の夜ご飯、何を食べようかな」と考えて、「明日はどうしよう」と作戦を立てるような小さなワクワク。

そんな日常が積み重なっていくことこそが、生きている心地につながるのだと感じました。
やっぱり、新潟の暮らしには、そんな豊かさがぎゅっと詰まっているのかも。

今回お話を聞かせてくれたのはこちらの方!

鈴木 優紀 Yuki Suzuki
1988年生まれ、東京都出身。大学を卒業後、ネットワーク、サーバ管理を中心にSE業務に携わる。専業主夫を経て、単身新潟にIターン、以降現職。散歩が趣味。