移住という言葉が持つ重みを変えたい!地域おこし協力隊からはじまった熊野さんの佐渡ライフ!

今回は佐渡初の移住コーディネーターとして活躍されている熊野礼美さんにインタビューさせていただきました。

『移住』という選択肢はコロナ前に比べるとだいぶ柔軟になってきたように感じます。
しかし、まだまだ言葉が持つ意味は重いとおっしゃる熊野さん。

この記事を読んで、地方に住むことに対して少しでもワクワクしてくださると嬉しいです。

 

海外に憧れ、日本語教師を目指す

ーとても好奇心旺盛でアクティブな方なのかなという印象なのですが、幼少期はどんな子でしたか?

熊野礼美さん父親が海外出張の多い人だったこともあり、幼少期から海外への憧れがとても強かったですね。妹弟がいるのですが、父出張から帰ってくると、子どもたちの前に世界地図を広げて、その国の言葉や通貨を見、「お父さんはどこへ行ってきたでしょうクイズ」をやっていました(笑)

海外で働きたいとか、住みたいとまでは思い描いていませんでしたが、いつか旅行に行ったり出会いを楽しむために、英語を学びたいと考えるきっかけになりました。

そして、英語を学びたいと父親に伝えたところ、「自分で調べなさい」と言われたんです(笑)当時はスマホもないですし、小学生だった私は電話帳を開いて英語教室を探し、隣の学区にあった教室に自転車を漕いで習いに行っていました。その後も語学に対する熱は冷めることなく、高校生になると“学ぶ”より“話したい”と思うようになり、外国語大学に進学しました。

 

 

ー就職活動はどういった軸で行っていたんですか?

熊野礼美さん外国語学科に進学したからというわけではありませんが、英語を使う仕事をしたいと思い英会話「NOVA」の営業職に新卒で就職をしました。楽しさややりがいは感じつつも、海外で働きたいという思いはずっと抱いていましたね。
ですが、英語だけを使って仕事をすることに対しては怖さもあって(笑)

悩んだ末、日本語教師を目指すようになりました。日本語教師になるにあたって、「日本語教育能力検定試験」に合格するか、「日本語教師養成講座」を修了する必要があったので、定時で終わる事務の仕事に転職をし、講座に通いました。無事修了したあとは、台湾の国際幼稚園で日本語教師を経験しました。

海外に住むという夢は叶いましたが、経済的な問題もあり続けていくことは難しく、28歳のときに帰国しました。帰国後は神戸で教材販売会社に入社をし、小中学校を回るルート営業を行っていました。

 

 

佐渡移住のきっかけはフラワートレッキング

ーその後、なぜ佐渡に渡ったのでしょうか。

熊野礼美さん結婚を機に暮らし方を考え直したのがきっかけですね。前職では6年ほど働いていましたが、教材の販売会社は忙しさの波が激しいんです。新学期が始まる前の春休みに1年分の全教科の教材見本を20校を越える担当校に届けないといけないんです。紙の教材以外にもテスト用紙や裁縫セットなど含めて学校に運ぶという作業で、繁忙期は終電間際まで働いていました。

結婚をして今後家族が増えることを考えると、休日出勤や繁忙期とプライベートの両立は難しいなと感じたんです。また、私は実家では1人部屋をもらっていましたが、神戸でマンション住まいとなると、私が幼少期に与えられた以上のものを子どもに与えることは難しいなとも感じて。

私のライフステージが変わるタイミングで転職をしないといけないなと思いながらも何もできずに2年が経ってしまったんですが、32歳の時に佐渡へ旅行に行く機会があり、魅了され、佐渡で暮らすことに興味が出ました。

 

 

ー旅行に行こうと思ったきっかけは何だったんですか?

熊野礼美さん何歳になっても続けられる新しい趣味を見つけたくて、30歳で登山をはじめたんです。山を登る目的やスタイルは人それぞれなんですが、私は高山植物にハマってしまって(笑)山にしか咲かないような花を目当てにフラワートレッキングをしていました。その中の1つが、佐渡のドンデン山にある雪割草でした。佐渡なんて神戸に住んでいる私からしたら未知の世界で、そのロマンも相まって行ってみようと思ったんです。
※フラワートレッキング…花を観察しながら山を登ること

そして、実際に行ってみると佐渡の山に取り憑かれるくらい魅力を感じました。また、地元の方々がとても温かかったのも印象深い思い出です。佐渡弁って越後弁と違って、関西っぽい一面があって、関西の人にすごく親近感をもってくれるんです。そんな経験があって、今に至ります(笑)

 

 

ーその後はどのように移住計画を進めていったのですか?

熊野礼美さん佐渡にどんな仕事があるかを探したところ、『地域おこし協力隊3期生』の募集を見つけたんです。町おこしや地方創生に興味があったわけではありませんでしたが、「佐渡に住みたい」という思いがある私にとって家と仕事がある地域おこし協力隊はとても魅力に感じました。

画家である夫に相談をすると、移住に賛成をしてくれたのでその勢いのまま応募をして合格、佐渡での生活が始まりました。

 

 

空き家をセレクトショップへ、地域おこし協力隊としての第一歩

地域おこし協力隊での活動内容を教えてください!

熊野礼美さん2014年より3年間、佐渡市地域おこし協力隊として空き家・移住者支援を行いました。特に力を入れていたことは空き家対策です。イメージアップを図るために、ブログの更新や空き家の改修を行っていました。
※空き家対策…空き家の放置によって発生するさまざまなトラブルを解消し、空き家の活用や処分を後押しすること

空き家って3K(暗い・汚い・怖い)と言われるくらいなので、やっぱりそんなに良いイメージはないと思うんです。そん空き家だからこそ、もっと自分ごとのようにしないと、見向きもされない。見向きもされないということは、誰もその問題に触れないし解決なんてされないですよね。

そう思ってはじめたのが「隊員的空き家レポです。テレビでもお宅訪問があるように、人の家ってみんな見たがるじゃないですか(笑)専門知識はないので、レポートの内容は咲いている花についてだとか、鳥の声がよく聞こえるだとか、家の持っている歴史だとか、そういう情報を盛り込んで魅力を伝えていきました。

嬉しいことに、そのレポを楽しみにしてくれている島民の方が増えてきて。島民同士の口コミで空き家情報がすごく充実しだすようになりました。移住者のために書いていたレポートですが、むしろ島民の方が空き家購入をするようになってしまって(笑)これはこれでいかがなものかとは思いますが、以前はそういう議論にもならなかったので良い変化ですよね。少しでも空き家というものが誰かの心に残るように昇華させていくことが、空き家活動の目標です。その他にも、移住セミナーや移住モニターツアーも行っていました現在は佐渡UIターンサポートセンターを運営や、佐渡初の移住コーディネーターとして活動をしています。

 

空き家を購入し、シェアスペース「ひょうご屋」として改修されたそうですが、どのような思いがあったのでしょうか。

熊野礼美さんひょうご屋は協力隊のときに空き家調査に入った家だったんです。すでに「兵庫屋」という屋号がその家にはありました。地域おこし協力隊として空き家を紹介する上で、自分で改修するという実体験がほしいなと思い、購入に至りました。購入した空き家は人も集まりそうもない辺鄙な場所に建っていましたが、ここで人が集うようになればどこでも成功するなと思い、この空き家でゲストハウスのような「人が集まる居場所づくり」のための場を作ることを決めました。

私の目標は人を集めることだったので、改修の段階から沢山の人に関わってもらったんです。DIY講座を開いて、床貼りをしたり廃材を使ってベンチを作ったり。そうして、ひょうご屋がオープンする前なのにも関わらず、たくさんの人に知ってもらえてたくさんのファンができました。

はじめはシェアキッチンとして運用をしていたんですが、シェアスペースとして1ヶ月貸しに変えてみたんです。すると、パンケーキ屋さんやスープカレーのお店が入ってくださり、たくさんのお客さんが来るようなお店になりました。

「空き家ってお店になるんだ」という自信にも繋がりましたし、島人からの嬉しい声も上がり、とても良い経験になったなと感じています。

 

地域おこし協力隊の任期を終えて

地域おこし協力隊の任期は3年間ですが、その後も佐渡に住まわれた理由を教えてください!

熊野礼美さん3年間って長いようで短くて、きちんとサポートするためにはもっと時間を掛ける必要があると感じたからです。そう感じた理由は2つあります。

私が着任後3年間で成し遂げなければならなかった目標が、「移住相談」の土台作りでした。しかし、セミナーなどでお話を聞くとほとんどの人が、「3年後移住を考えています。」や、「4年後に子どもが小学校を卒業するからそのタイミングで佐渡に来たいと考えています。」など、長期的な相談をされるんです。市の職員って2,3年で異動することが多いため、相談相手がすぐに変わってしまうのは良くないんじゃないかと思ったのが1つの理由です。

もう1つが、市の職員は土日の対応に限界があるということです。それなら市という枠を越えて、新たに事業を立ち上げたほうが良いだろうと考えました。そして、佐渡市地域おこし協力隊の任期が終わった2017年に、佐渡市と協力して『佐渡UIターンサポートセンター』という移住者への支援事業を立ち上げ、代表に就任しました。

 

ー「移住」をして、第二の故郷のような愛は芽生えましたか?

熊野礼美さん佐渡は私の生まれ故郷では無いけど、佐渡がもっと良くなればいいなと思えるようになりました。愛とはちょっと違う、移住者ならではの感情がありますね。私は佐渡で商売をしているので佐渡は商売の種でもあるわけなんです。

佐渡の価値が下がれば、移住者も来なくなるわけで。商品価値を下げたくないという気持ちと、自分が佐渡に住むという判断を間違ったものにしたくないという思いがあります

「私が選んだ佐渡で、これくらいV字回復させたんだぜ!」くらい言いたいなと思っています(笑)

愛というより執着とか、育てるとか、そういった感情の方が自分にはしっくりきますね

 

 

ー熊野さん自身の目標を教えてください。

熊野礼美さん令和3年2月末に「佐渡暮らしサポーター」を立ち上げたんです。移住者が、佐渡に住む人に子育てや住まい、仕事のことなどを気軽に相談することができるコミュニティです。ずっと前から考えていたものがやっと形になったので、大切に運用して『人が人を呼ぶ』、そんな島にしていくことが今の課題と目標です。

また、「移住」に対する考えがもっとシンプルで、柔軟になってほしいとも思っています。移住コーディネーターとして働いているからこそ、「移住」という言葉が持つ意味が重すぎるなと、「引っ越し」と何が違うんだろうと感じるんです。死ぬまで住むわけではないですし、みんなの「移住」に対するハードルが下がってもっと気軽に行き来できるようになれば良いなと思います。

私が協力隊の一員になった2014年は、親御さんの介護のためにUターンで戻ってくる人がほとんどでしたが、今はコロナの影響もあり20代の方も多く移住されるようになりました。海外から直接問い合わせが来たり、海外から戻られた日本人の方が定住先に佐渡を選んでくれたりと、ライフスタイルが変化しているのを感じます。この時代の変化に伴って、地方がもっと活性化し、盛り上がると嬉しいです。

佐渡に住む人たちとともに、これからの島を作っていく一員として今後も活動していきたいです。

 

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今回は佐渡UIターンサポートセンターの運営、そして佐渡初の移住コーディネーターとして活躍されている熊野さんにお話を伺いました。

社会人になってから「日本語教師」という夢を追いかけ始め、その後は山登りがきっかけで佐渡へ移住をしたという熊野さん。聞けば聞くほど面白いキャリアを歩まれている方でした。

コロナの影響もあり『働き方』が大きく変化した近年。自分の好きな場所や住んでみたい地域で働くという選択肢をする方も多くなったそうです。

自分の夢ややりたいことに向き合い、行動することはとても勇気がいる行為かもしれません。
でも人生は一度きり。モヤモヤ悩んでいるより「こうやって生きたい!」と感じた自分を信じて飛び込んでみることも大切ですね。

shabellbaseでは、今後も様々なバックグラウンドを持った方を取り上げていきます。あなたの夢探しやライフプランに役立つヒントを是非見つけてみてください。

さらに、shabellbaseには、熊野さんの他にも地方に可能性を抱き移住をした人やUターン人材が沢山います!是非チェックしてみてください!

 

熊野 礼美さん
くまの れいみ|SUI代表・移住コーディネーター


兵庫県姫路市出身 2014年11月に地域おこし協力隊として佐渡へ移住、空き家・移住者支援を行う。2017年より佐渡UIターンサポートセンターを運営。同年、佐渡初の移住コーディネーターとして活動を開始。

佐渡UIターンサポートセンターHP:https://sadouiturn.com/
ひょうご屋HP:https://reimikumano.wixsite.com/lots-of
佐渡市地域おこし協力隊活動報告サイト:http://sado-chiiki-okoshi.blog.jp/archives/cat_715784.html