サッカー選手になる夢を追い続ける人生を想像したことはありますか?
サッカー選手といえば、男子小学生の将来の夢ランキングでは常に上位の、憧れの職業ですよね。ですが小学生のころ沢山いたはずのサッカー選手志望は、年齢が上がるごとに減っていって、実際にプロになれるのは、ほんの一握り。
サッカー選手でないにしても、小学生の頃の将来の夢を、いつの間にか手放してしまう人がほとんどではないでしょうか。私自身も、現実的ではないからと小学生のころの夢は切り捨ててしまいました。
今回お話を聞いた森田翼選手は、アルビレックス新潟の下部組織でサッカーを磨いてきた、新大学1年生です。さらに今回は、そんな森田選手を支える親御さんにもお話を伺いました。
幼いころから本気でサッカー選手を目指し、そのために惜しみない労力と熱意を捧げてきた森田選手のお話からは、夢を追うことの厳しさと、案外単純な「夢を諦める人」との違いがみえてきました。
サッカー漬けの生活
ーご卒業おめでとうございます。⾼校⽣活はどうでしたか?
森田翼さん:高校卒業認定を取るためにWスクールという形で2校に通っていました。開志学園という新潟にある通信制の⾼校と、同じく新潟にあるJAPANサッカーカレッジ⾼等部です。
開志学園では1ヶ月に1回登校して国語や英語の授業を受け、単位を取得。サッカーカレッジでは数学やサッカーに関する授業を受けながら、その他の時間はサッカーをするという毎日で、サッカー漬けの高校生活でした。
ー興味深い世界です。そんな仲間はどれくらいいるんでしょうか。
森田翼さん:高校のサッカーには2種類の選手がいて、インターハイや全国高等学校サッカー選手権に出場できる高体連の選手と、主にJリーグの下部組織に所属するユースの選手がいます。僕はアルビレックス新潟の下部組織であるアルビレックス新潟U-18に所属していました。1学年10人弱で全学年で30人程度で活動していました。JAPANサッカーカレッジの生徒は高体連の選手です。学校の授業は一緒に受けますが、サッカーのチームは別で、練習も別々になります。複雑ですよね(笑)
ー中学⽣のときはどんな⽣活だったんでしょうか。
森田翼さん:1つ年上の兄とアルビレックス新潟のジュニアユースチームで⼀緒にプレーしていました。中学⽣のときは部活動には所属せず、平日の放課後や土日はアルビレックスジュニアユースでサッカーをしていました。⽉曜と⽊曜がオフで、それ以外の⽇は中学校の授業が終わったらすぐにバスに乗って、聖籠町まで⾏って練習しました。
ーサッカーはいつから始めたんでしょう。
森田翼さん:5歳ぐらいのときです。⼩学⽣になって、兄が浜浦コスモス2002という、僕が通学していた浜浦小学校を中心とした地域のチームに⼊ったので、その影響でサッカーを始めました。⼩学校に⼊学する前から兄と⼀緒に練習を始めて、⾃分もそのまま同じチームに⼊りました。
ーそのときからポジションは変わっていないんですか?
森田翼さん:ポジションは変わりましたね。そのときはボランチという、攻撃にも守備にも参加するポジションでしたが、いまは攻撃の最前線のフォワードをやっています。フォワードになったのは、中学校3年⽣のときです。
⾃分は守備があまりうまくなくて、ボランチではそれほど活躍できなかったんです。そこで、そのときのコーチがフォワードを提案してくれて、フォワードになりました。ボランチにも守備的ミッドフィルダーと攻撃的ミッドフィルダーがいるのですが、⾃分は攻撃的だったので、スタンスはそのまま⽴ち位置が変わっただけのような感じでした。ですので、やることは変わらなくて、すんなりとポジション変更を受け⼊れられました。センターバックで点を決める選⼿もいますが、やはり⼀番ゴールに近いのは⼀番前のポジションです。当時目立ちたくて、そのために点がとりたかったので、⼀番ゴールに近いポジションを望んでいました。フォワードは結果が⼀番わかりやすく出るポジションで、攻めが得意な⾃分に向いているんだと思います。
ーご両親はサッカーをやられていたんですか?
森田翼さん:いえ、⽗は野球をやっていて、⺟は陸上をやっていたそうですが、どちらも今はやっていません。両親とも、サッカーを教えられるわけではなかったですが、応援には毎回来てくれていました。⼩学校の頃から毎回ビデオも撮ってくれているので、兄の分も合わせて、家には⼤量のビデオがあります(笑)
⽗は最初の頃、的外れなことを⾔ってきていましたが、サッカーの動画を⼤量に⾒てきたので、今ではとても的を得たアドバイスをしてきて、納得することも多いです。⽗は⾃分たちの試合だけでなく、⽇本代表などの試合も動画で沢⼭⾒て勉強していますね。⺟は特に何も⾔ってこないです。ただ、真剣にサッカーをやって、プロになるようには⾔われています。
兄の背中を追いかけて
ー⼩学校に⼊る前からずっとサッカーをやってきて、辞めたくなったことはありませんか?
森田翼さん:辞めたいと思ったことはありませんが、点が取れなくて、何でできないんだって⾃⼰嫌悪に陥る時はあります。
でも結果を出すしかないので、練習が終わった後に⾃主練習をして補おうとしています。具体的には、シュート練習やインターバルトレーニングなどですね。⾃分で回数などの⽬標を設定して、それが終わるまでは⽌めない、と決めていました。練習後なので時間は限られていましたが、合間を縫って練習をしました。
⾃分より結果を出してる⼈よりも追い込んで練習しないと、その⼈より結果を出すことはできませんからね。そういう練習の積み重ねで点が取れるようになって、⼀歩ずつ進んでいると感じています。
中学⽣の頃は、⾃分で⾔うのもなんですが、周りよりできる⽅だったので、あまり⾃主練はしていませんでした。ですが、⾼校に⼊って周りのレベルが⾼くなると、伸び悩んでしまったんです。加えて練習会場と学校や寮が近かったので、時間ギリギリまで練習することが増えました。
ーサッカー漬けの⽣活への転機はいつだったんでしょう。
森田翼さん:ジュニアユース(U15)に⼊ったのは、中学校1年⽣のときです。⼩学校6年⽣のときにセレクションがあって、そこで選ばれました。もしそこで選ばれていなかったら、アルビレックスの下部組織に入ることもできなかったので、高校も違っていました。そう考えると、⼩6のときのセレクションが転機かもしれません。そのセレクションでは、やる気や闘争⼼をむき出しにして、全⼒でアピールしましたね。そうしないと、コーチ陣の⽬にも⽌まらないので、⾃分のプレーをすることを意識していました。
ーそこで夢への着実な⼀歩⽬を踏み出したわけですね。実際にサッカー選⼿を⽬指せる⼦とそうではない⼦の違いはなんだと思いますか?
森田翼さん:やる気の違いじゃないですかね。⾃分と兄はプロになるという明確な⽬標があって、そのために練習していました。それに向かって、努⼒してきたので、うまくなれたんだと思います。
将来の夢はサッカー選⼿と⾔う⼦は多いですし、⾔葉でいうのは簡単ですけど、やっぱり努⼒しないと駄⽬だと思います。
僕が努⼒ができたのは、単純にサッカーが好きだったのが⼤きな要因です。サッカーが好きで、加えてプロになりたいっていう⽬標もあったんで、練習に全⼒で取り組めました。
ーお兄さんの存在も⼤きいですか?
森田翼さん:⾃分の中ではかなり⼤きいです。⼩6の時、兄がFFP(JFAフットボールフューチャープログラムトレセン研修会)で、新潟県の代表に選ばれたんですよ。それで⾃分も選ばれたいって兄を追いかけるようになって、全⼒でやりましたね。
今まで兄の存在がプレッシャーになることもなくて、ずっと追いかけている感じがしています。大学では僕が所属する大学は関西リーグ、兄の大学は関東リーグです。お互い全国大会に行くことになれば戦うことが出来ます。やはり兄を倒すことは、サッカーを続ける上でずっと⽬標にしてきているので、そのときは倒したいですね。兄はセンターバックをやっているので、ポジション的にフォワードの⾃分とマッチアップするんです。⾃分が点を取れたら勝ちで、逆に点が取れなかったら負けの直接対決になります。兄は⾼校から県外に⾏って、FC東京の下部組織でプレーしていたので、⾼校のときも全国⼤会に出たらチャンスはあったんですけど、機会がなかったので、⼤学では戦いたいですね。
ーお兄さんと仲はいいんですか?
森田翼さん:仲は良くもなく悪くもないですが、喧嘩ばかりしていていました(笑)
家でもそうですし、ボールを相⼿に取られたり、パスを出さなかったりすると、試合中も喧嘩しましたね。
今はあんまり話さないです。兄が新潟に帰ってくる正⽉には話しますが、LINEをしたりはしません。
連絡するとしたら、⾃分が伸び悩んだときですね。⾼校の時には点が取れなくて、どうやったら点が取れるかを相談しました。そのときの兄の返事はシンプルで、練習するしかないよって⾔われましたね。でもその⼀⾔で迷いが消えて、やる気が出ました。