今回は新潟にある建設業界の総合商社、東邦産業株式会社の社長 五十嵐悠介さんへインタビューしました!東京の上場メーカーへ就職した後、新潟市の家業を継承。現在はSDGsのビジネスコンサルタントとしても活躍する五十嵐さん。働く理由、生きる理由に悩んでいる方に是非読んでいただきたい記事です!
マクロな部分から世界を変えていきたい
ー五十嵐さんは、どんな学生時代を過ごしましたか?
五十嵐悠介さん:私は生まれも育ちも新潟です。子どもの頃は活発な子ではなかったので、ひたすら本を読んでいましたね。とにかく本を読むことが好きで、小学校、中学校の生徒の中で一番本を読んでいたと思います。中学生時代には、年間250〜300冊くらい読んでいて、図書館の貸し出し冊数が3年連続ぶっちぎりで1位でした(笑)。
当時は、なぜそんなに読書が好きなのかをうまく言語化できなかったのですが、今思うと本を通じて知り得る未知の世界にとにかく惹き込まれていたのだと思います。
ー高校生活はどうでしたか?
五十嵐悠介さん:地元にある、それなりに偏差値の高い高校に通っていました。高校生になっても、ずっと本を読んでいた記憶が強いです。
ただある程度の偏差値のある学校にいくと、変わった人もすごい多くて。そこでの交友関係から、現実の世界にコミットをすることに興味を持ちました。
帰国子女がいたり、海外志向が強かったり、そんな人が何人もいて、すごいなと思っていました。さらに、彼らにとって海外は目的ではなくて、手段だったんですよ。自分と同世代の人たちが、「海外に行く」という手段を使って、社会・世界に何かをしていきたいと思い描いていることにとても刺激を受けました。
ー新しい価値観に触れ合えた瞬間だったんですね。その頃の将来の夢を教えてください。
五十嵐悠介さん:国連の職員になりたいと思っていました。世界を変えたかったんです。高校の時って、ポジティブとネガティブが存在する不思議な時期だと思いませんか?
なんでもできちゃいそうだけど、”なにも持っていない現実”があって、波がすごいある時期だなと思っていて。ポジティブに振り切ったときに、そういうことができるんじゃないかと思ったんです。
ーどうして世界を変えたいと思ったのでしょうか。
五十嵐悠介さん:私が高校生の時は1990年代後半で、日本はバブルが崩壊しましたが今よりかは景気が良い時代だったんです。
一方で中国やアフリカはとても貧しい時代でした。日本ではこれだけ食料が捨てられているのに、海外で食料に苦しむ人がいるというニュースもやっていました。そこでNPOに入ることも考えたんですが、入ったところでマクロな部分は変わらないなと思ったんです。
マクロ的に動かすとなるとやっぱり国連なのかなと思いました。WFP(国際連合世界食糧計画)のようなところに入って、難民に対する食料の支援をして、マクロな国の課題を解決できる人間になりたいなと考えていました。
ー高校卒業後のキャリアを教えてください。
五十嵐悠介さん:高校卒業後は、早稲田大学の政治経済学部に進学しました。入った理由は東大よりもなんとなくすごい人がいそうだなと思ったからです。イメージで言うと田中角栄みたいな(笑)
そんな人がたくさんいる環境で揉まれることで、自分の中の変化もあるかなと期待していたんです。
ー実際入ってみて、ギャップはありましたか?
五十嵐悠介さん:ギャップはなかったですね。私が大学一年生のときに乙武洋匡さんが同じキャンパスにいらっしゃったんですが、乙武さんのように社会に大きな影響を与えている人が周りに多くいたので、とても刺激を受けました。
他にも「就職やめて世界に行ってくるわ!」みたいな人がたくさんいて、日々面白かったです。
実際に訪れたことでわかったイメージとのギャップ
ー大学生活で熱中していたことを教えてください!
五十嵐悠介さん:中国の歴史に興味があったので、留学で1年間中国に行ったんです。日本と比べて考え方のベースは同じなんですが、根本的に違う部分があるんです。
中国は王朝交代をしていて、上の人が信じられなくて、自分で作った仲間しか信じられないっていう三国志みたいな世界があるんですよ。そこのメンタリティの違いってなんなんだろうというのを知りたくて、中国に行きました。
ー実際に行ってみてどうでしたか?
五十嵐悠介さん:とても面白かったです。日本人ってことで絡まれることもありましたが、良い人もたくさんいましたし、とても勉強になりましたね。留学期間でバックパッカーをしながらほぼ全部の省にも行ったので、学びたいことは全て学べたような感覚です。
一番記憶に残っている思い出は、新疆ウイグル(ウイグル地区)に行ったことです。そこでパスポートを落としてしまって。国際電話をかけて上海の領事館に電話をしたんですけど、自分でなんとかしてくれと言われてしまって(笑)。どうしたらよいか分からず警察署に行ってみると、なんとパスポートが届けられていたんです!話を聞くと、ウイグル系の人が警察に届けてくださったらしくて。
海外でパスポートや貴重品を落としたらもう諦めるしかない。安全に戻って来る国は日本だけだって言われていましたけど、実際に体験してみたことで違うんだと気づきました。人に対してラベリングしたらダメと言いながら、自分がしていたなと、偏見を持っていたんですよね。この体験が一番印象に残っています。
祖父が作った歴史を止めたくない
ー大学を卒業してからのキャリアを教えてください。
五十嵐悠介さん:大学の1年生までは国連に行きたいなって思っていたんですが、考えが変わっていって中国に留学してから考えようと決めたんです。そして留学中、私が考えていた国連の職員になってやりたいことは世界を取り巻くとてつもなくマクロなことで、頭の中でしか考えられていない理想だと実感しました。英語のスキルだけ身につけても、現地のリアルなことを知っていないとどうしようもないなと思ったんです。それから自分なりに考えて、もっと足元から世界に対してできることをしようと思いました。
その考えのもと企業選びでは、本業以外で良いことをしているところに行きたいなと思い、就職活動をしていました。例えば技術力をもったメーカーだけど環境負荷が低い製品を目指していますとか、将来の新しいエネルギー源を作りますっていうような会社に行きたいと思ったんです。
そして新卒で、東京のセメント業界日本1位の「太平洋セメント」という会社に入社して、そこで6年間働きました。後半の2年間は、北京で駐在員をしていて、そのときが2008年〜2010年で、中国の景気が非常に良いときでした。
ーその後Uターンで新潟に戻られたとのことなんですが、どのような理由があったのでしょうか。
五十嵐悠介さん:家業を継ごうと決めたからです。大学までは国連職員になりたいと思っていましたが、中国に留学したり、実際に働いたりする中で一人の力でできることって限度があるなと感じて。
起業も考えたことはあったんですが、家業の会社が世代継承が成功していて50年も続いていて、地域からも求められているような会社だったんです。その歴史を同じ30代で作った祖父ってすごいなと思って。その尊敬からこの会社で働きたいなと思い、Uターンを決意しました。
五十嵐さんの描く社長像
ー家業を継いでから、辛かったことってどんなことがありますか?
五十嵐悠介さん:将来、経営の要になってほしいと思っていた人がライバル会社に引き抜かれたことですね。そのときは、社内のケアにとてもエネルギーを取られました。あの人が抜けるなんて、なにかあったんじゃないかと思われてしまって、それは辛かったです。
そのときは私はまだ社長ではなかったですが、会社で起こる問題の9割は社長の責任だと考えているので、自分だったらこういうことが悪かったんだろうなという視点で考えていました。
例えば給料を倍出すからって引き抜かれたなら、それを出せなかった会社が問題ですし、社内に不満があったならば、それを言える環境を作れなかった私に問題があったのかなということです。全てを自責にするだけだと思考放棄にもつながるので、どうしたら良かったんだろうを言語化して周りに共有するようにしています。
ー東京と新潟で、働くことの違いはありますか?
五十嵐悠介さん:新潟では終電を気にしなくて良いから楽ですね(笑)。東京で働いていたときの最初の数年間は、千葉から1時間半かけて通っていたので、合計3時間も通勤時間があったんです。しかも満員電車なのでパソコンを開いて仕事をすることもできなかったですし、強制的に通勤をするだけで仕事時間を取られているイメージですね。新潟ではそれが無いことがとても嬉しいです。
あと太平洋セメントは2,500人くらいの社員であったのに対し、新潟に戻ってきてからは30人くらいの規模の環境で働いていたんです。その違いから感じたことは、転籍できないことは大きな違いだなということです。
もし上司と合わないってなったら詰むなって思って。そんなことを思って経営者として考えることは、いかにそこのマッチングを上手くするかにかかっているなと思っています。なぜなら東京と違って、ダメなら転職すれば良いじゃんってことが容易にはできないし、会社としてもすぐに採用することもできないですからね。だからどう働いてもらえるかということを、中小企業だからこそ自分たちの会社のミッション・ビジョンを明確にしないといけないなと思いましたね。
ー社員さんの中にUターン・Iターンを行った人はいるんですか?
五十嵐悠介さん:多いですね。弊社は50代以下の社員の8割が中途入社なんですが、その半分がUターンかIターンです。そういった方たちが新潟に来ると、必ず「ご飯が美味しい」っていうんです(笑)
あとこれは人によりますが、農業に触れ合うハードルが低いという意見も聞きます。田んぼも多いので、子どもが自然に触れる機会が多いことは嬉しいですよね。
与えることで成長していく
ー五十嵐さんはSDGsの活動を精力的に行っているとお聞きしました。その活動をはじめたきっかけを教えてください。
五十嵐悠介さん:青年会議所という団体に10年くらいいたんです。青年会議所というのは国連のパートナー団体で、2016年の当初からSDGsにすごい取り組んでいたんですよ。
私は2017年の時、日本の青年会議所の国際担当になりました。日本の中高生を3,40人くらい呼んでニューヨークの国連本部にいくという事業があったんです。内容としては国連本部で様々な国の若者が英語でプレゼンをするというもので、それについて行ったんです。いまでこそSDGsという言葉は知れ渡っていますが、当時は一部の人しか知らないような言葉でした。ところが中学生や高校生の子どもたちが英語でSDGsのプレゼンをするわけなんですよ。このままでは私達が大人になったときに子どもを育てられませんって話すんです。すごい問題意識だなと思ったと同時に、それを放置しているのは大人の自分たちなんだと、気付かされました。
何か行動をしないと!と思ったときに、SDGsに関するビジネス向けの資格があったのでそれを取得していろんな会社に伝える活動を始めたのが経緯です。
ー五十嵐さんが働く上で大切にしていることは、どんなことですか?
五十嵐悠介さん:自分の人生訓的なことになりますが、「人間の一生は何を集めたかよりも何を与えたかによって決まる」ということですね。
お金だけではなくて、様々な機会や気づきを多くの人にgiveできる人になりたいです。うちは商社として、この人とこの人をつなげたら面白いだろうなと思って仕事もしますし、お金に関してもただ貯めるだけではなくて誰かの為に使えると良いなと思うんです。それが本当の意味の投資だと思っていて。
自分の資産を増やすための投資じゃなくて、この人に対してこうやったらもっと地域が良くなるという思いに「じゃあお金出すよ」とか「この人紹介するよ」とか、それが与えるってことだと思います。人に与えるために自分自身や会社がレベルアップし続けないといけなくて、だから成長しようって思うんです。成長のための目的は与えることってことですよね。
ー五十嵐さんの今後の目標を教えてください!
五十嵐悠介さん::SDGsや会社もそうなんですが、『究極の目標』って、私が産まれたときよりも死ぬときのほうがこの社会が良くなってるってことなんですよ。なのでもっと沢山の人に、もっと沢山のものを与えられるように仕事を頑張ろうと思っています。
具体的には、子どもたちには教育の機会を与えたり、お客さんには本当にためになるものを提案していきたいです。
giveするものを前提にすると、変えるべきものが見えてくる。
変えることができるのが“自分”しかいないのであれば、そこに責任を持って行動をして変えていく。これがきっと経営というものの在り方だと思いますし、そんな人間になりたいと思います。
***
今回は、SDGsのビジネスコンサルタントとしても活躍している五十嵐さんに取材をさせていただきました。
人のために自分を成長させ続けたいという強いgive精神をもった五十嵐さん。取材を行う中で五十嵐さんのような想いを持つ人が増えていくと日本・社会が良くなって行くのではないかと感じました。
弊社でも、SDGsを推進していくための取組を掲げています!SDGsに興味のある方は、こちらの記事も合わせてご覧ください!
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- 五十嵐悠介さん
いがらし ゆうすけ|経営者
1981年生まれ。新潟県出身。早稲田大学卒業後、一部上場メーカーにて勤務。うち二年間は中国北京に駐在。退職後、新潟市にて家業である東邦産業株式会社代表取締役に就任。SDGsビジネスコンサルタントとして、年間二十件以上の研修講師、講演活動を実施。地元のラジオ番組に不定期出演をしている他、SDGsを軸とした就活イベントを企画・実施
東方産業株式会社:https://www.tohos.co.jp/