【ダンサー】日本のダンス表現を世界へ!国友慎之助さんが考える「自らの使命」とは

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今回、取材のために新潟市中央区にあるDance Presentation UNITYの本拠地にお邪魔させていただきました。

少し古いスタジオの中では、10〜20代の若きダンサーたちが振り付けを考えながら体を動かしています。一方、その傍でパソコンと向き合って何やら作業をしていたり、敷地の奥にあるお洒落なトレーラーハウスのキッチンで料理をしていたり。
ここはダンスの技を磨くためだけのスタジオではなく、1人ひとりが自身の役割をしっかりと認識し、自発的に行動する場所。全員、ここからイノベーションを起こそうと考えて過ごしている。そんな空気感を一瞬で感じるような場所でした。

彼ら彼女らは、どうしてこんなにバイタリティに溢れているのか。それはきっとこのスタジオから、世界に向けたイノベーションが巻き起こっていく光景を、その目で見てきたからでしょう。
世界一の栄光を3度も手にしたChibi Unityの運営会社であるDance Presentation UNITY。その総合代表を務める国友慎之助さんへ、取材を通してその人生観を探ってきました。

「今はパッとしない自分でも、これからの将来何かを成し遂げたい」「大きな夢に向けて進み出す勇気が欲しい」という想いを抱えた方に、ぜひ読んでいただきたい記事です。

 

「新潟から世界へ」史上初の世界3連覇を成し遂げたChibi Unity

県内で圧倒的な実績と知名度を誇るジュニアダンスチームChibi Unity(チビユニティ)。
2017年、“世界最高峰”と言われる大人数振り付けパフォーマンスのコンテストVIBE Dance Competition』に優勝すると、2019年、2020年に史上初の3連覇を果たします。(2018年は未開催。
さらには『Body Rock 2018』という世界的なストリートダンスコンテストでも見事3位という好成績。

チビユニティ表彰式

 

その後、東方神起LIVEのオープニングアクトや、県内で開催された天皇陛下御即位記念の国民文化祭では総合演出を担当して自ら出演するといった目覚ましい活躍を見せてきました。
また、その活動はダンスだけにとどまらず、人気歌手のPVに映像作品を提供することや、企業と連携しAR VRボリュメトリック技術開発をするなど幅広く展開しています。

Chibi Unityで育ったダンサーたちは、中国や韓国をはじめとした海外へと活動拠点を広げていたり、インストラクターとして北海道、名古屋、フィリピンなどを行き来してダンス技術やマインドの普及に努めるなど、成人後もさまざまな方面で活躍中。

今やChibi Unityとは、単なるジュニアダンスチームではなく、ダンスでイノベーションを巻き起こすプロデュースチームとも言えるでしょう。
そんなChibi Unityを0から作り上げた国友慎之助さんは、実は高知県のご出身。さらに驚くことは、国友さん自身が18歳までダンスとは無縁の生活を送っていたということ。

ダンス、新潟、そして子供たち、それぞれとの出会いによって、国友慎之助さんの人生はドラマティックに進展していきました。
そんな国友慎之助さんが抱く使命感、そして今後の展望について、次章から深掘りしていきます。

 

母との再会。そしてダンスと出会う

ー国友さんは18歳からダンスを始めたそうですが、それまではどんな幼少期を過ごされていたのでしょうか。

国友慎之助さん:僕はめちゃくちゃ変な子供でしたね(笑)小学生の頃は、友人と遊ぶよりも自分が描く想像の世界で遊ぶことが好きでした。当時の夢は考古学者で、学校からの帰り道によく山や川へ寄り道をして、穴を掘ったり、秘密基地を作ったりして遊んでいました。それで片道20分で着くはずの道を、2時間かけて帰る日々でした(笑)

国友慎之助と父

うちは父子家庭で、僕と兄はほとんど祖父母に育てられたんです。2人はめちゃくちゃ厳しくて、礼節とか質素な生活を重んじる人でした。
家での飲み物はお茶か水だけで、ジュースや駄菓子などは一切食べさせてくれなくて。だから、家にある調味料を使ってジュースを作ろうとしてみたり、どうしたら駄菓子やジュースの味を再現できるか実験のようなことを繰り返していました。
今でも、常にいろんなことを考えて探究するところがあるのですが、これは完全に幼少期の経験によるところだと考えています。

高校生になると仲が良かった兄が大学進学のために、家を出ることに。
その途端に僕は自分にとって絶対的な理解者のような存在を失ってしまって、暴走族に入り非行へと走り出してしまいました(笑)
それから祖父や祖母に反抗してしまいましたが、感謝の気持ち自体を忘れてはいませんでしたね。どんなに悪ぶっていても迷惑だけはかけないよう、学校の成績はしっかりと取るようにしていたり。

そして高校卒業後に、離れ離れだった母親と再会。その母親がよさこい踊りの功績が高い方だったことで同時に踊り(ダンス)にも出会いました。

 

ーそこから国友さんのダンス人生が始まったんですね。

国友慎之助さん:ダンスを生業にしている人の中では、かなり遅い方ですよね。母親とダンスに出会ってからは、とにかく母親のそばにいたくて、大学に進学はせずダンス留学のためにアメリカへ渡りました。

それからは、昼夜問わず無我夢中でダンスを学びました。その間、母親の近くで過ごせたことで、常識の中でがんじがらめになっていた自分から解き放たれることに。

そして眠っていた素質のようなものが母親とダンスによって引き出されたような気がします。

よさこい「IZANAI」

親が立派だと子供にとっては逆に負担になったりはしなかったのでしょうか

国友慎之助さん:そうですね。僻み妬みなどは、常につきまとっていました。うちは父親も経営者で地元の方々から慕われていましたし、母親もよさこい踊りで名高い方だったので、私たち子供に対して厳しい視線を向けられることはありましたね。
でも、そんな環境の中で自分自身の演じ方や、対応力を身につけていったのかもしれません。

いま、子供たち1人ひとりにあった指導が求められる中、柔軟な対応ができているので、この境遇から身についたものをしっかり役立てられているのではないかと思いますね。

 

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