本当の豊かさを生み出すには?営業マンから高校教諭へ転身した宮崎芳史先生の原点 “主体性とローカル”

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今回は、niigatabaseでも何度か取り上げている実践型探求学習『マイプロジェクト』を新潟県ではじめて運営し、本職である高校教諭の傍ら、さまざまな場面で若者の探求学習・キャリア教育に貢献されている宮崎芳史先生に取材してきました。

大手旅行会社から高校教諭に転身するという異色のキャリアを持つ宮崎先生。
この記事では、宮崎先生が高校教諭になるまでの、主にマインド形成の原点にフォーカスしています。

後編の記事にも続いていくので、そちらもぜひチェックしてみてください。
⇨後編記事:『キャリア教育に人生をかける!民間セールスマン育ちの宮崎芳史先生がマイプロにかける思い』(近日公開)

本当の豊かさは、経済だけでは測れない

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ー早稲田大学人間科学部時代に環境社会学を学ばれた宮崎先生。そこで「豊かさとはなにか」について考え、現在の基軸につながる「ローカルにこそ経済的な意味だけではない豊かさがある」と感じたのだとか。その原体験について、具体的に聞かせてください。

宮崎芳史さん:はい。原体験になったのはミクロネシアのヤップ島というところで、数千年変わらないとされる現地の暮らしを2週間経験させてもらったことに始まります。そこでの暮らしは、ヤシの実を割ってココナッツジュースを飲んだり、獲ってきた魚を食べたり、ドキュメンタリー番組などで目にするような生活そのものでした。現地の方々は、10mくらいのヤシの木を勢いよく駆け登ってナタで実をとってくれたり、島内のどこにどんな植物があるかを知り尽くしていたり、とても現代の日本人には真似できないような凄みがありました。

彼らの文化は”使い切らずに子孫に残す文化”、他所から持ってきたりはせずに“あるものを使う文化”です。それで数千年もの間、大切な心が受け継がれてきました。そういった生活がすごく豊かだと感じたのです。たとえ経済的に後進国でも、自然と共にお互いを尊敬しあいながら暮らしている。持続可能であり、人と人の想いも自然も豊か。

一方で日本は、回復しない経済状況に未来への希望が薄れ、10年先の世の中すら見えない閉塞感がありました。そして、環境問題による“成長の限界”は先進国全体の課題でもありました。

果たして文明的とは何か、真の意味での豊かさとはなにかと考えるようになり、卒業論文では『日本とミクロネシアのヤップ島は、どちらがより文明的と言えるだろうか』と問いを立てました。明らかにヤップ島よりも文明の進化を遂げた日本ですが、それは豊かと言えることなのか。私は日本が好きだし、日本も豊かではあるけれど、便利さゆえに、見えなくなっている豊かさもあるのではないかと。

 

ー大学時代に宮崎先生が創った環境サークル「ecolor(エカラー)」での活動も、そういった問いに繋がっていったのでしょうか?

宮崎芳史さん:そうですね。環境問題って、向き合っていくうちにどうしても絶望的な気持ちになりがちで、あれもこれもダメってなりがちなんです。私たちは環境社会学で「人々が思わず環境を守りたくなるような仕掛け」を考えていたので、SHOULD型の課題解決ではなく、WANT型の「やりたい」から考えようと思ったんです。「Positivity makes  the change!(ポジティブな想いこそが変化を起こす!)」、それぞれのカラーで楽しく・前向きな気持ちで環境問題に取り組むことで、社会を変えていこうって。しかし、楽しいだけでは問題の本質には迫れない。WANTの向かう先が社会を良くする方に向かっていかなければいけない。そうすると人々の価値観・メンタルモデルが重要だなと。私たちはこれからどんな社会を目指せばいいのか、豊かさについて考えるようになっていきました。

そして、そんな想い自体を熱く語れる場所を創出するためにサークルを立ち上げました。あれは私にとってのマイプロジェクトでしたね。今思えば、マイプロジェクトの”MY”が、エカラーでいう”color”だったなと認識しており、そこには”主体性の重要さ”が反映されていると思っています。

 

本気で自分と向き合っていることに自信を持て

ー”主体性の重要さ”はどんな経験から感じたことだったのでしょうか?

宮崎芳史さん:高校時代に野球部に所属していたのですが、監督が「自分と本気で向き合っていることに自信を持て」とおっしゃっていました。人と比べて自分を評価するのではなく、自分自身と向き合っていること、常に新しい自分になろうと挑戦していること、それこそに価値を感じなさいという意味だったと思います。これは今でも大事にしている言葉です。とにかく厳しいイメージをもたれていた高校野球の中で、自ら取り組む姿勢を大切に指導されている監督だったので、練習も自分たちで主体的に考えて取り組んでいました。

私は野球をするために高校(明訓高校)に進学したのですが、最初にもらった練習試合用ユニフォームの

背番号は105番。3の倍数で上手な選手から割り当てられていたので、技術としては35番目。試合に出るには絶望的な立ち位置でした。一度は本気でやめようと思ったこともあったのですが、本気で続けると決意してからは腹をくくって必死に練習して、ベンチには入れなかったものの、たった一度だけですが、Aチームに入ることができました。目立った結果は残せませんでしたが、自分の成長を実感することができ、自分で自分を変えられたことは、すごく自信になったんです。そこから、やらされるのではなく、自ら本気になって取り組んだ先に内省や自己変容が見えてくることを実感したんです。

今にして思えば、人の人生を変える力をもつ内発的動機付けの重要性を学んだと思っています。実は、これは人々が主体的に動く仕掛けを考えていく環境社会学においても重要で、まちづくりでも住民の当事者性や内発的動機こそがまちを豊かにしていく原動力になるんです。

 

地域の生活の中に、豊かさは眠っている

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ーすでに学生時代で宮崎先生が生徒たちに伝えようとしているものの軸が出来上がっているように感じます。ですが、新卒では高校教諭ではなく大手旅行会社に就職されたんですよね。このファーストキャリアにはどんなことを求めていたのでしょうか?

宮崎芳史さん:私は地域活性化に取り組みたかったんですね。経済では測れない様々な指標による「豊かさ」がローカルにこそあると感じており、その価値を広げることが社会全体の今でいうウェルビーイングにも繋がってくるメンタルモデルの変革になると考えていました。だからこそ、当時「地域深耕(ちいきしんこう)」というスローガンを掲げていた大手旅行会社で、光の当たらない地域にこそ光を当てられる人になりたかったんです。

 

ー「光の当たらないところに光を当てられる仕事」ですか。それって宮崎先生ご自身、光が当たらない中から打破できた経験があるからなのでしょうか?

宮崎芳史さん:そうかもしれません。私には兄が2人いて、小さい頃から我慢を強いられる状況が多く、それなりにきつかったんですよね(笑)しかし、それが影響したのか、どうやったら自分の人生を切り拓けるのかと常に考えているような子になりました。気がついたら、絶望的な状況の中から光を見い出すことが得意になっていた気がします。変わっていますよね(笑)

それは野球でも、営業の仕事でも、高校教諭になってからも生きていると思います。

小学生で野球を始めた頃も、それまでろくにスポーツをやっていなかった私ですが、1度も練習を休まずに「誰より努力する」ことを目指し続けたことで上達することができました。それはマラソン大会ではもっと顕著で、小学4年生から6年生まで毎年順位が半分に昇格していったんです。中学では主将になりましたが、高校ではその自信が完全に折られるところからのスタートでした。

社会人になってからも、初年度は営業で最重要とされたある指標の達成率が0%とひどい有様でしたが、そこから奮起して、3年目には周りの助けと運もあって支店内での目標40%を大きく上回ることができました。

努力によって自分自身を変えていける感覚を味わい、喜びや自信を得ることができた一方で、努力してもダメな時もあると学ぶこともあったのですが。結果として「絶望的な状況」は、私にとっては「きた!自分の得意な状況だ!」と感じるようにはなりましたね。だからこそ、光の当たらないところに光を当てることが、自分にとってのライフテーマでもあると思うのです。

 

主体的に地域と関わる人を増やしたい

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ーでは、旅行会社を辞めて高校教諭になろうと決意したのはどんな理由があったのでしょうか?

宮崎芳史さん:1つは、大学時代にやっていた塾講師の楽しさややりがいが忘れられなかったことですね。受験という壁を乗り越えるために今の自分を超えていく、戦略的に学びをマネジメントしながら合格へ向かっていく。私にとっての青春でした。合格発表の時はボロボロと涙が流れてきて。もしかしたら人生を変えられたのかもしれないという大きなやりがいがありました。そんな経験から、学校で3年間しっかり伴走することができる高校教諭って、すごくやりがいがあるだろうと思ったんです。元々、社会の教員免許が取れる学部を選んでおり、就職活動と民間企業で学校外の社会を経験させてもらって教育の世界に戻っていく感覚でもありました。

もう1つは志で稼ぐことの難しさを実感したこともあるかもしれません。私が担当していたのは修学旅行営業でした。今思えば、学校の動かし方を学ばせていただくことはできたのですが、数多くの修学旅行を無事に終えるのが私には精一杯で、なかなか豊かな地域をつくったり、地域に主体的に関わる人を増やす仕掛けにはできず、私がヤップ島で感じたような学びをつくることはできませんでした。もっと地域・社会への当事者意識をもち、主体的に地域に関わる人を増やせる仕事は何だろうと考えていました。結果的には、今が一番そんなやりがいを感じられていると思います。

 

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今回は、新潟南高校教諭 宮崎芳史先生へのインタビューの前半をご紹介しました。
ローカルと主体性の重要さを感じ、大手旅行会社から高校教諭へと転身された宮崎先生。

後半の記事では、高校教諭になった目的と、なってから感じた気付き、さらにはキャリア教育(マイプロジェクト)への思いを中心にご紹介いたします!こちらも、宮崎先生の志が溢れているので、必見ですよ!!
⇨後編:『キャリア教育に人生をかける!民間セールスマン育ちの宮崎芳史先生がマイプロにかける思い』(近日公開!)

 

宮崎芳史さん
みやざき よしふみ|高校教諭


1985年新発田市生まれ。新潟明訓高校を卒業後、早稲田大学人間科学部人間環境科学科に進学。大手旅行会社の営業を経験し、2014年から新潟県の高校教諭へ転職。前任校ではグッドデザイン賞、ふるさとづくり大賞などを受賞。2020年度からはNIIGATAマイプロジェクト☆LABO実行委員長として、事務局のみらいずworksにもプロボノスタッフとして参画している。

NIIGATAマイプロジェクト☆LABO:https://niigata-mypro-labo.com/
みらいずworks:https://miraisworks.com/