建築の視点を家からまちに!Suikaka近藤潤さんが拓く、建築デザインの新しい可能性

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今回取材させていただいたのは、株式会社Suikakaの代表 近藤潤さんです。

建築士・デザイナー・『古町100選』の人など、幅広く活躍する近藤さんは、建築デザインの視点をまちに広げたり、ロゴ・Webやモノに絞ったり、プロジェクトディレクションに応用したりされている方です。
そのキャリアを見ると、「建築士=建物を作る人」と勝手に決め込んでいた私って浅かったな〜と実感します。

「古町100選」など、地域での取り組みに注目されることが多いという近藤さんですが、今回はあえてその”視点”がどのように養われたのかにフォーカスしてみました!
古町や新発田など、地域でのお話は、また続編で。

 

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とはいえ、『古町100選』って何!?気になるんだけど〜!という人のために、概要だけは触れておきます(笑)

 

「古町100選」とは

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2017年から新潟市の古町エリアでまちを舞台に街遊びを企画する「古町セッション」という団体が企画した試みのこと。
古町をもっと楽しむためのクールな過ごし方を100個集めたリストを展示した限定的なイベントであったが、2週間で約2500人が来場した好評ぶりから、現在は新潟駅南口1階のMOYORe:(モヨリ)で展示中。さらには書籍化を目指して、クラウドファンディングも始まります。

クラウドファンディング『新潟古町の今がぎゅっと詰まったローカルガイドブック古町100選を出版したい!』ページはこちら
「古町セッション」公式HPはこちら
「古町100選」公式Instagramはこちら

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これを中心人物として運営しているのが近藤さん。
建築士、いろんなプロダクトやweb制作まで手がけてしまうデザイナー、古町でなんか面白いことをやっている人ですね。そして、ここから先はインタビューです!

組み立てたり、モノを作ることが好きだった

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ー近藤さんの活動を見ると、家を建てる「建築家」というよりも広い視点で「まちの一部を作る人」という印象なのですが、最初はやはり「建築家」を目指していたのですよね?

近藤潤さん:そうですね。小学生の頃に実家を増築して、家が建っていく工程をみて「かっこいいな」と思っていたのがきっかけだったように思います。なので、大工さんに憧れていった先に建築にたどり着いた感じですね。

元々、幼い頃から工作が大好きな性格だったんです。
通っていた保育園に、自由に工作ができるスペースがあり、みんなの家から持ち寄られたペーパー芯やカップなどが置いてあって、お昼ご飯を早く食べ終わった人は、教室内で自由に遊ぶことができました。
なので、私は誰よりも早く工作スペースへ行って、いい材料を確保し、たっぷり工作をするために、毎日高速でご飯を食べ終わっていた記憶があります(笑)

 

ー工作が好きで、家が建っていく過程にときめいていた近藤さんが、最速で日本の建築家になる道ではなく、わざわざ”イギリス留学”を選んだのには、どんな理由があったのでしょうか。

近藤潤さん:建築学生だった頃に、先輩から勧められてどハマりした『アーキグラム』という建築家集団の存在が大きいですね。

1960年代に活動していたアーキグラムの建築家達は、普段は建築事務所に勤める一方で、夜な夜な集まって、奇想天外な建築プロジェクトを構想していたんです。その企画を取り上げた展示会や、のちに発刊した書籍が、僕のような建築学生や建築家たちを驚かせていました。彼らが考えたのは、例えば「移動する町」だったり「空飛ぶ町」。

ほとんどは実現していませんが、中には時代の進歩によって実現できたものもあります。彼らの建築はアート作品として高く評価されていると同時に、先進的な発想だったことも事実です。
どういう思考をしたら、このようなものを考えられるのか、とっても興味があったんです。そんなアーキグラムの方が教えている大学がイギリスにあると聞いて、留学したいと思うようになりました。

 

何にも捉われないクリエイティブを追求

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ー普通感覚では真似できないような、『アーキグラム』の発想力に惹かれたんですね。それ以外には留学してやりたいことや目的はあったのでしょうか?

近藤潤さん:当時は、SANAAという建築ユニットが流行っていたことも一因です。
SANAAはとても素敵な建築で、絶大な評価を得ていました。当時の建築学生は皆SANAAを尊敬していたでしょうし、コンクールのようなものにはそのノウハウやエッセンスを真似ようとする作品が多かったです。

しかし僕の中には、多くの人が同じものを真似ていて、それが評価される、という風潮に抵抗感を感じていたりもしたんです。だから、日本の大学院に進むのではない選択を探していた部分もあります。

そんな感じに、当時もがいていたからこそ、アーキグラムに吸い寄せられていったところもありますね。

 

ーなるほど。しかし、留学となるとそれはそれで別の問題などはなかったのでしょうか?

近藤潤さん:ありましたね。僕は受験科目での英語は得意だったのに、会話としての英語は全くダメだったんです。筆記はできるので、試験上は問題なかったのですが、言葉が出てこなくて、実生活ではかなり苦労しました。

結局、授業についていけなくて単位が取れず、1年間通った後に休学して、語学学校に入り直しました。
9ヶ月間、語学学校に通いながら、進級するための課題に取り組んでいました。
その期間は、今思うと若干ノイローゼになっていて、現実逃避のように日本のお笑い番組をYouTubeで見たりもしていました。
僕の暗黒期ですね(笑)

割と時間を持て余していたので、その間にプログラミングを勉強してみたところ、面白くてすっかりハマっていきました

復学するときには、建築学科でデジタルアート系のことを学べる、別の大学に入り直したほどです。ウエストミンスター大学というところに通って、修士号をとりました。

 

ー暗黒期のように感じておられたようですが、結果的には次なる扉を開けるために必要な期間だったようですね。

近藤潤さん:そうかもしれませんね。
日本にいた頃から、プログラミングに関心はあったんです。「ライゾマティックス」という、リアルとバーチャルを横断するような作品を手がけるクリエイティブ集団の創始者が大学のOBで、講義を受けた時からの興味でしたね。

ウエストミンスター大学の大学院では、公園のベンチに着目した研究のなかでプログラミングを活用したり、建築の視点を生かしつつデジタルの力で、まちの姿や人々の暮らしに影響を与えるプロダクトを制作していました

 

「建築の設計」によらない建築デザイン

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近藤さんがロンドンの建築事務所時代に携わっていたマスタープラン(団地再生計画)

ーその後、ロンドンの建築事務所で4年間働いたのですよね。そこでやっていたことは、大学院で学んだ「建築×デジタル」の経験を活かせるものだったのでしょうか?

近藤潤さん:当時デジタルメディアを使った作品を作っている方は個人のアーティストが多く、就職先としては難しい現実がありました。なので、割と王道な建築設計事務所に就職しました。

そこでは、住宅やマンションの設計だけでなく、マスタープランという団地のような規模の敷地に道や公園、戸建ての住宅などの配置を決めるプロジェクトも多く扱っていました。

 

ーマスタープランとは何でしょう?

近藤潤さん:私が経験してきたマスタープランは、老朽化が進んできている団地エリアを再開発する計画でした。何棟もの団地マンションが建ち並び、道路の流動性も悪いために、そのエリアだけが周囲の街から遮断されるような作りになっているような場所。そういったところを、建築家の視点から街全体の未来を考えて、個別住宅や集合住宅、公園、道路の配置を有効的に配置していくんです。日本の不動産会社がやっている一般的な宅地開発よりも大規模なものが多かったですね。

つまり、建築家はただ建物を作るだけではなく、将来につながる街を設計するんです。
これは、とてつもないやりがいを感じた仕事でしたね。

 

ー日本ではそう簡単には詰めない経験ですね。その後、ビザ更新のタイミングで帰国され、「日本らしさは地方にこそある」という考えから、新潟にUターンされたのですよね。そのように考えるきっかけは何だったのでしょう?

近藤潤さん:ロンドンに住んでいたときに日経ビジネス電子版で、梅原真さんという高知のデザイナーの特集をやっていました。その頃から、少しづつ日本のローカルな取り組みにスポットライトがあたり始めていて、面白いなと思っていたんです。

特に、梅原さんの砂浜美術館のプロジェクトが衝撃的でした。それは美術館というハードな箱を作らなくても、そこにある砂浜の風景や漂流してくるもの、自生している植物、その場所にある”そのもの”が展示物になったりして美術館が成立しているんです。それってすごいことだなと感激しました。

そして同時に、建築の設計でない方法でも、目的を達成できるのだと気づいてしまったんです

この手法は、大地の芸術祭でも同じように使われています。それぞれ、地方独自の風景の広がりや環境の良さがあってこそなんですよね。
日本らしさって、多面的なもので、東京など都市部のイメージより地域の表情の方が、バリエーションを知っているので、地方にこそあると思っているのかもしれません。
新潟はたまたま出身で両親が住んでいるからくらいのきっかけで、それが九州でも四国でもどこでも住んでいた可能性があると思います。

 

家だけでない、まちを設計する

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ーUターン後、新潟の「らしさ」を感じる機会などはありましたか。

近藤潤さん:建築や街に触れるお仕事をしているので、その地形の歴史を紐解くようなことは普段からよくしているんです。特に戻ってきた当初は、新潟を改めて知るためによく調べていました。

すると、子どもの頃に感じていた「ここの道は何でこんなにくねくねしているんだろう」とか、「何でここらへんには古い家が多いんだろう」などの疑問が解消されたりして、「新潟のおもしろさ」を感じました。

新潟は、信濃川と阿賀野川による海に向かって押し流す動きと、日本海の独特な海流による押し返しの動きがあり、かなり特殊な砂丘地形でできているんです。住んでいるとあまり意識しないと思いますが、歴史を紐解くことで長い年月の中で築かれていった「らしさ」に出会うことができたんです

 

ー今後、近藤さんが挑戦していきたいことなどは何でしょう?

近藤潤さん:今後は、ロンドンにいた頃に経験させてもらったマスタープランを、新潟でも挑戦していきたいと思っているんです。家だけではなく、まち全体のことを考えた設計をすることで人々の暮らしをデザインしていく方法ですね。

そのためには、今の僕には発信力やPR力が課題です。さまざまな領域の方々へ向けて、街や人の暮らしに対する思いを共有し、プロジェクトを一緒に進めていってくれる仲間を作れるように意識していかないといけないですね。

 

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今回は、株式会社Suikaka代表の近藤潤さんにお話を伺ってきました。

冒頭では、「近藤さんとは、色々やっている人」という紹介をさせていただきましたが、こうしてお話を伺ってみると、建築家としてもデザイナーとしても、古町のことも、何だか一貫性のあることをしているような感覚になっています。

自分らしい生き方をしている方の肩書きって、改めてただの後付けに過ぎないんだなと思えますね。

 

近藤 潤
こんどう じゅん一級建築士・デザイナー


1984年、新潟市生まれ。東京理科大学理工学部建築学科を卒業後、渡英。ウェストミンスター大学建築デジタルメディア学専攻を修了後、アリソンブルックス建築事務所に4年間勤務。主にロンドンの住宅やマンション、ランドスケープ、団地再生などに従事する。フリーランスを経て2020年に株式会社Suikakaを設立。

株式会社SuikakaHP:https://suikaka.com/