小説、脚本、フィクションのものはそれを想像する人がいて、その人の想像に多くの人たちが魅せられ、さらに多くの感情や考察がそこから生まれている。
私がいま大ハマりしているあのドラマだって、誰かの想像が組み立てたもの。
そう思うと、”想像力”を一種の商売道具としている人たちの凄みを感じますよね。
今回お話を伺ってきたのは、作家の藤田雅史さんです。
アルビレックス新潟のサポーターたちの恋愛や日常をテーマにした短編集『サムシングオレンジ』では「サッカー本大賞」の読者賞を受賞。他にも、新潟の大人気WEBマガジン「Things」のクリエイティブディレクターとしてもご活躍されています。
「もの書き」として生きていくことを決意されるまでのお話や、作品づくりの際の思考回路(これは絶対に解明不能でしょうが、それでも、少しでも、、)などを紐解くべく、取材してきました。
ものづくりに生きるためのファーストキャリア
ー大学(日本大学芸術学部)進学時にはすでに「ものづくり」の道を歩まれていた藤田さんですが、どのような流れがあってその道に進もうと考えられたのでしょうか。
藤田雅史さん:昔から絵を描いたり、お話を作ったりすることが好きだったので、小学生の頃にはもう「将来ものづくりがしたい」と思っていました。具体的には小学3年のとき、藤子不二雄Aの『まんが道』と出会って漫画家を夢見るようになったのが最初かもしれません。
高校生で大学の進路を選ぶときも、経済、政治、法、社会学、そういったよくある分野の学部にはどうしても興味がわかなくて、結局ものづくりの道だけが残った感じでした。だから、大学を卒業しても、子どものときの気持ちのまま、たいして成長もせずに22歳になっていた感覚ですね(笑)
ー大学卒業後は、派遣会社に登録して様々なものづくりのお仕事をされたそうですが、就職ではなく、その働き方を選ばれたのはどうしてでしょうか?
藤田雅史さん:まったく就職活動をしなかったんです(笑)
そもそも芸術学部って、真面目に就職活動をしている人の方が少なかったんですよね。卒業してから「あ、これからどうしよう」とは思いましたけど、illustratorやPhotoshopといったソフトが使えたので、派遣会社に登録したらデザインの仕事である程度は食いつなげるだろうと考えたんです。最終的にはものづくりで食べていこうと思っていたので、しばらくの「つなぎ」として派遣を選択しました。当時は派遣社員でも一般企業の社員の給料並みに稼げる時代だったので。
派遣の仕事では、大手旅行会社の関連会社でツアーの手配書を作ったり、印刷会社で名刺を作ったり、あとオーディオメーカーの子会社でDVDやBlu-rayの取扱説明書を作る仕事もやっていて、仕事自体は面白かったし、社会とのつながりを感じてそれはそれで充実感がありましたね。
新潟での創作の開拓は、やはり”人とのつながり”
ー東京で派遣の仕事がうまくいっている中、新潟に帰ってこようと思ったのはなぜですか?
藤田雅史さん:24歳の時に父が他界し、新潟に戻った方がいいなと思ったからですね。
でも仕事探しは完全に一からで、当時新潟に『SODA』というフリーペーパーがあって、それは『新潟美少女図鑑』をやっている企画・デザイン会社さんが出していたんですけど、その誌面でちょうどライター募集をしていて、連絡をしたら外注ライターとして仕事をいただけることになりました。
ーその時が「もの書き」の始まりですか?
藤田雅史さん:でも、その時にやっていた「ライター」と今の「もの書き」はまったく別物で、ライターはクライアントが主体のクリエイティブ業務の中で、そのパーツの一部となる文章をつくる仕事です。でも「もの書き」はあくまで自分を表現して、作品を生み出す仕事、というか。
最初はそのフリーペーパーとかタウン誌、広告に関するライターとデザインの仕事をやっていたんですけど、やっぱり創作がしたくて、個人的に「もの書き」をやり始めました。自分の書いた作品を集めて少部数の冊子を作ったりして。そうしたら『新潟美少女図鑑』のディレクターの方がそれを読んでくれて、誌面とウェブでコラボ小説を書くことになったんです。
それから今度は、それを読んでくれた演劇の世界の方からお芝居の戯曲を書かせてもらえるようになって、次は、BSNラジオのドラマ脚本を担当するようになって、さらにそれが本になって。
ちょうどその頃、フットサルをやっていた仲間がアルビレックス新潟のサポーターズマガジンの編集に関わっていて、その人から「何か一緒にやりませんか?」と声をかけてもらったんです。それで『サムシングオレンジ』(連載名は『THE ORANGE TOWN STORIES』)という作品が生まれました。結局みんな、いろんな「つながり」が今の仕事になっていった、という感じです。
自分の中に、いつも複数の視点を持つこと
ー藤田さんの作品は、あえて正面からのアプローチではなく、絶妙にリアルな角度を捉えているところから「エモさ」のようなものを感じます。その視点はどこからきているのでしょうか?
藤田雅史さん:自分では気づいていないところですね…。でもものを見る角度や視点をそう表現していただけると嬉しいです。
きっと、これまで自分が吸収してきた他のいろんな作家さんの作品が、無意識に蓄えられて引き出しになっているのかもしれません。それが自分の「視点」を育ててくれている、というか。書くときになんとなく「この作家さんだったらこうするかな」みたいなイメージを具体的に持つこともありますよ。自分の中の「好き」が積み重なって、そのタッチや方法論が勝手に自分のデータベースに残されていくような感覚で、だから自分独自の視点というよりも、自分の中に様々な人がいて、複数の視点が常にあるような気がします。むしろそれは意識してやっていることでもあります。
ーオフィスの本棚に並べられた本たちが、藤田さんの中に蓄積されているのですね。ここにはどのくらい本があるのですか?
藤田雅史さん:2,000冊くらいですかね。自宅にもまだあります。高校生のころから買い始めて、20年くらいかけて集めたものたちですけど、内容を全て覚えているわけではないので、また読み返せば、これからまた20年くらいは退屈せずにこの本たちに楽しませてもらえると思っています。
小学生、「自分はものづくりの人間だ」と悟る
ー本を読むことは昔から好きだったのですか?
藤田雅史さん:そうですね。小さい頃は絵本が好きでした。でも、本を読むこと自体が好きなタイプではないので、本なら何でもいいのではなく、やっぱり好みの本しか読まなかったですね。
僕はひとりっ子なので、友達の輪に入るときにどうしても不安になってしまう性格だったんです。それに加えて、我が家はファミコン禁止だったので、友達の家に集まってみんなでゲームをしても下手くそだから僕だけすぐにゲームオーバーになってしまうんですよ。だから結局、みんながファミコンで遊んでいる横でひとりでレゴをやっているような子でした。そのぶん、ひとり遊びや物語の世界にどっぷり浸かっていたというか、とにかくひとりで何かを作ることが好きでしたね。
ー流行りの遊びに乗れないことに加えて、ひとりっ子という境遇では、そうなるのもわかります。教育目線では、ゲームよりもブロックに夢中になってくれている方がいい側面もありそうですが(笑)
藤田雅史さん:そうかもしれませんね。小学3年生の時には映画を撮ることにハマったりもしました。家にビデオカメラがあったので、クラスの友達を集めて一緒に空き地で映画を撮っていたんです。勧善懲悪もので、タイトルは当時流行っていたバットマンにちなんで『バッチョマン』。そういう遊びも今の自分につながっていて、ある意味、原体験になっていると思います。
『まんが道』と出会って漫画家を目指すようになったのもちょうどその頃で、漫画雑誌の読者コーナーに応募したりして。藤子不二雄の単行本のシリーズがあったんですけど、それに応募して。自分のハガキが単行本の巻末に掲載された時は本当に嬉しかったですね。掲載されるとその後何年かは藤子不二雄から年賀状が届くんです。もちろんプリントですけど(笑)、すごい嬉しくて。たぶん、そういうことのひとつひとつが小さな自信になって、「自分はモノづくりの人間なんだ」って勝手に思い込むようになったんですよね。
ーそれは大きな自信につながりますね!他にも今につながっていると自覚するものはありますか?
藤田雅史さん:小学校4年生くらいの時だったと思うんですけど、新潟市の市報に自分の書いた漫画が掲載されたことがあったんです。小学生の作品を募集する企画で、応募してみたら運よく選ばれたんです。
その作品は、家庭内のちょっとしたことで親子が喧嘩をして、”それって小さな戦争だね”というオチをつけた他愛のないものだったんですけど、そのとき父親に「なぜこれが選ばれたか分かるか?」と聞かれたんです。「これは今の世界情勢があって、それを皮肉るようなものだったから、それが可笑しくて選ばれたんだよ」と。当時は湾岸戦争の頃でした。そのときに、「テーマ」というものをはじめて意識したような気がします。
何も浮かばない時は、頭を使わない
ー物語を作る時って、藤田さんの場合はまずどんなことを考えるのでしょうか?
藤田雅史さん:まずはその作品に求められている条件を頭の中で整理します。それから、その括りの中で何ができるかを考えていく感じです。実体験から「これを書きたい」「このテーマでいきたい」と思うものが浮かぶこともありますし、誰(作家)っぽくいこうとか、あるいは「今回は恋愛系でいこう」「家族ものにしよう」とざっくりと考え始めることもあります。時には「このフレーズを主人公に言わせたい」みたいなところから発想していくこともありますね。
あとは何気なく日常の生活を送っているうちに、自分の中にフックのようなものがあって、それに引っかかるものを書き留めて、具体的にかたちにしていくイメージですね。それを逃さない準備は、常日頃から無意識のうちにしているんだと思います。
でも、日によっては何も浮かんでこないこともあります。大体、ご飯を食べた後でお腹いっぱいで眠いときとかなんですけど、そういう時はダメですね(笑)
ーそういう時はどうするんですか?
藤田雅史さん:ダメだなって時は、できるだけ書くことをせずに、想像力を使わない仕事で処理するようにします。
ここ数年の自分のワークスタイルは、完全に朝型なんです。朝がいちばん調子がいいので、頭が冴えているときに創作の仕事をして、午後になって集中が切れてきたときは頭を使わずにできることをやります。
朝5時台に起きて、6時過ぎに事務所に来て、7時にはカフェで原稿を書いて、昼食後はそれ以外の作業をこなす、っていうルーティンです。昼休憩を挟まなければ15時頃にはもうすでに8時間働いていることになるので、あとは買い物をして夜ご飯の支度などをします。そして21時頃には就寝。子供よりも寝るのが早いんですよ(笑)。この生活スタイルが自分には一番効率的だとわかってから、もう3、4年はこのスタイルが続いていますね。
想いが作品にのって、届いていることがある
ー藤田さんがもの書きの仕事に感じるいちばんの醍醐味はなんでしょうか?
藤田雅史さん:作品そのものを作る満足感はもちろんあります。あとはそれだけじゃなくて、「届くことの喜び」を感じられることですかね。それは自分でどうこうできることではなく、読んでくれる人がいて、その人が楽しんでくれたときにしか起こり得ないことなんですけど。でも、たまにそれを感じて「あぁ、届くものが書けてよかった」と思ったりしますね。
ーこれから藤田さんが、もの書きとして挑戦したいことはありますか?
藤田雅史さん:まずは書き続けたい、それだけですね。
欲を言えば、子供が大きくなって手が離れたら、いろんなところを訪ねて作品を書いていきたいですね。新潟を舞台にした作品が多いことで、「地元愛が強いからなのか」と聞かれることがよくあるんですけど、特別そういうわけではないんです。もちろん故郷だし、今住んでいる場所なので愛着はありますけど、リアルな条件設定ができるから、というだけの理由なんです。だから自分がもっといろんなところに出て行って、世界を広げて、またそこで体験したことから新しい作品を作り出せるようになったらいいなと思っています。まあ、需要があれば、の話なのですが(笑)
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今回は、作家の藤田雅史さんにお話を伺ってきました。
「日常のなかでフックに引っかかるものがある、それを逃さない準備を無意識にしているのだと思う」
“想像”を生業にする方の脳内に迫るのは、はなから無理なことではありますが、藤田さんの意識や今につながる個々のエッセンスを紐解くことはできたように感じます。
私も最近の日常から、自分の心のフックに引っかかったものをあらためて書き出してみたりしたくなってきちゃいました。
- 藤田 雅史さん
ふじた まさし|作家
1980年新潟市生まれ。山羊座のO型。新潟県立新潟高等学校卒。日本大学藝術学部映画学科卒。著書『ラストメッセージ』(2019)『サムシングオレンジ』シリーズ(2021〜)『ちょっと本屋に行ってくる。』(2022)『グレーの空と虹の塔 小説 新潟美少女図鑑』(2022)。小説、エッセイのほか戯曲、ラジオドラマなど。2019年よりウェブマガジン『Things』のディレクターを務める。2022年、『サムシングオレンジ』がサッカー本大賞2022優秀作品に選出。読者賞を受賞。
個人事務所HP:http://025stories.com/