今回は、新潟の老舗和菓子店「百花園」の次期5代目である太田新太郎さんにインタビューをしてきました。
百花園のお菓子は、大切な人やここぞという時の贈り物に、私もよく選ばせていただいています。
そんな老舗の長男として生まれた太田新太郎さん。きっと、いろんなプレッシャーを受けてここまで来られたのでは、と思いきや、「あれれ、そんな感じ?」とつい言ってしまうような、さらりとしたお人柄。
気張らず、誠実に1歩1歩踏み出していくエピソードに、読む人はきっとどこか親近感を感じつつも勇気をもらえる、そんな内容になっているのではないかと思います。
百花園とは
百花園とは、明治15年に新潟市中央区営所通にて開業され、今年で創業140周年を迎えた和菓子の老舗です。近年では、看板商品の「生キャラメルの羊羹」が婦人画報の「お取り寄せ決定版2020」にて和菓子部門賞を受賞されたり、著名人がTVで紹介したりと大注目されています。今や新潟市に住む多くの方が一度は聞いたことのある憧れのお店。羊羹以外にも、琥珀等とチョコレートを合わせた「和コレート」、新潟の特産ル・レクチェの味が染み渡る「幻の洋梨タルト」など、和と洋を掛け合わせたお菓子が多く、たくさんのファンを魅了しています。
百花園公式HP:https://o-hyakkaen.com/
百花園の歴史:『百花園物語』
基本がわからない中、飛び込んだお菓子の世界
ー老舗和菓子屋の長男に生まれ育った太田新太郎さんですが、幼い頃から後継を意識されていたのでしょうか。
太田新太郎さん:いや全くそんなことなくて、親からも継いでほしいということは一切言われずに育ちました。私も全然継ぐ気がなかったので、職人の道ではなく普通の大学に進学しました(笑)
それと、私には弟がいるのですが、昔から弟の方が手先が器用だったので、なんとなく弟が継ぐんだろうなと思っていたんです。でも、私が大学3年の時、弟に継ぐ気があるのか一応確認をしたところ、「その気はない」と言われ、「それなら自分が継ごうかな」と思って継いだ次第です(笑)
ーそんな展開だったのですね(笑)大学時代は、本当に全くお菓子作りに触れてこなかったのですか。
太田新太郎さん:就活期に継ぐことを視野に入れてからは、バイトとしてお菓子作りに触れ始めました。しかし、それまでは本当に全く触れていませんでした。継ぐ決心をしたのも、もちろん家業を残したい気持ちがどこかにはあったのでしょうが、当時は「このまま東京にいて、毎朝満員電車に揺られる生活は嫌だな」くらいの考えでしたね。
ーそこから新卒で関東にある洋菓子店に就職するんですよね。
太田新太郎さん:そうです。当時はパティシエブームだったこともあり、「自分が洋菓子を習得し、そのエッセンスをこれからの百花園に取り入れよう」なんて偉そうに考えていたんです。しかし、現実は想像以上に厳しくて(笑)
長時間重労働など、シビアな職人の世界が待っていました。
辞めたいと思ったことなんて数知れずですが、そもそも他の多くのパティシエの方々はみんな学校で基礎を習得したうえで働いているのに、何も知らない自分に基礎から教えてくれたその職場には、本当に感謝しかないです。
ーそんな過酷な洋菓子店時代の後、和菓子店に転職したそうですが、和菓子の方が厳しい世界だったのではないですか。
太田新太郎さん:同じくらい厳しく、その時だって何度も辞めたいと思いました(笑)しかし、その時の状況や年齢的なこともあり、ここで逃げたら絶対に後悔するという思いでなんとか続けました。
私が務めさせていただいた和菓子店では、繁忙期こそ帰れない日もありましたが、逆に早く帰れる日もあり、余裕が持てる時もありました。
そんな時、先輩からの誘いで毎月行われる品評会に出品するようになりました。始めは嫌々でしたが、毎月出品していくうちに少しずつ上達していくのが分かり、やりがいや楽しさを感じるようになっていきました。
今思えば、たいした結果は残せませんでしたが、毎月の品評会に出品するか否かで私の和菓子人生も大きく変わっていたと思うので、誘ってくださった先輩やそれを許してくださった会社には本当に頭が上がりません。
また、務めさせていただいた洋菓子店も和菓子店も非常に卓越した技術のあるお店で、私自身ついていけてませんでしたが、そんな中でも働かせていただけていたことは大変貴重な経験となりました。
言葉がわからず、コミュニケーションに苦戦したフランス修行
ーしかしその後、フランスに洋菓子修行にいかれるんですよね。
太田新太郎さん:そうなんです。いよいよ実家に戻ることを意識した頃、洋菓子店時代の先輩に相談したりしていたら、フランスの洋菓子店にコネクションがあると言ってくれまして。箔をつけるために、そのコネクションを使ってフランス修行に行かせてもらうことにしました。
ーフランスのパティシエ。またシビアそうなところに行きましたね。
太田新太郎さん:厳しい世界ではありましたが、最初はフランス自体に魅せられて、惹き込まれました。仕事面では、やはり私には中途半端な技術と知識しかなかったので、学ぶことだらけでしたね。でも、もっぱら学びに行っているので、それよりも苦しかったのは言葉です。ある程度の業界用語は覚えて行ったはずでしたが、やはりコミュニケーションが取りづらい。
フランスに惹き込まれたのも最初だけで、慣れてしまえば「やっぱり日本が良い」と思ってしまったんです(笑)
そんなこんなで、後半はホームシックになりながら、10ヶ月の留学を終えて帰国し、百花園に入社することになりました。
百花園入社、手探りの改革が始まる
ー和と洋、日本とフランスを見てきた太田新太郎さんですが、百花園に入社されてどんなことを感じましたか。
太田新太郎さん:私としてはそんなに強く何かを感じたということはなくて、ただ戻ってきたという気合いはありました。だから少しずつ商品やパッケージを変えたり、デジタルを取り入れてみたり、所々変えていって。今年でちょうど入社10年目になるんですが、戻ってきた当初と比べるともうだいぶ変わったんじゃないかな、と思います。
ー新しいことをするって、従来のものや人との繋がりに角が立ったりして難しくはなかったですか。
太田新太郎さん:商品にしても経営方法にしても、百花園は変化に柔軟だったように感じます。従業員のみなさんも新しいものに寛容で、説明したら納得してくれていました。その部分であまり苦労しなかったことは、とても有難いことかもしれませんね。
また、戻ってきた最初の数年は、自己流で何かを変えたりしてもそんなにガラッと効果には現れなかったんです。それがある時期をきっかけに、大きく変革し、その効果も現れ始めたんです。
ーどんなきっかけだったのでしょうか。
太田新太郎さん:私が参加したブランディングの講習会がきっかけです。新潟市の一部エリアの事業者を対象として月1回、1年間ほど開かれていた講習会で、そこには様々な会社の社長や重役の方などが参加されていました。
その講習会で講師の方や仲良くなったデザイナーさんに協力していただき、講習の課題でもあったリーフレットを作成したり、新しいことを展開していくようになりました。
特に、『百花園物語』は作成するにあたって、先代から初めて聞く話などもたくさんあって、私自身とても勉強になりました。
これからの未来
ー太田新太郎さんが和菓子職人を続ける上での、やりがいとはなんでしょうか。
太田新太郎さん:自分の作ったものがお店に並んだり、お客さんから気に入ってもらえたりしたら、やっててよかったなって思えますね。やっぱり美味しいって言ってもらえるのは嬉しいです。
ー百花園をどのように未来へ繋いでいきたいですか。
太田新太郎さん:先代から引き継いでいる想いやこだわりは大切にしつつも、時代の流れに伴い新しいことに挑戦したお菓子を作って未来へ繋いでいきたいですね。
ありきたりですけど、これに尽きます。
気張ったりする必要はないと思うし、そんなことはできないと思うんです。でも、挑戦は続けたいと思っています。
***
今回は、明治時代から4代続く老舗和菓子店の次期5代目、太田新太郎さんにお話を伺ってきました。
大きな挑戦を、さらりと話される太田新太郎さんでしたが、そこにあった壁はとても大きなものだったと思います。
また、百花園に戻られて様々なことを改革される中、従業員や周囲の方々の理解と協力を得られていることも、太田新太郎さんの人となりだからこそ成し得ていることだと思いました。
その芯のある優しさは、何よりも百花園の味そのものに映し出されているような気がします。
- 太田新太郎さん
おおた しんたろう|和菓子職人
1982年生まれ。新潟市の高校卒業後、東京の大学に進学。卒業後は、神奈川の洋菓子店にて2年半ほどパティシエの経験を積む。続いて、東京都内の和菓子店で約3年半経験を積み、フランスでのパティシエ修行の後、2012年に家業である百花園に入社。現在、百花園の専務として従事している。
百花園公式HP:https://o-hyakkaen.com/
百花園ECサイト:https://o-hyakkaen.com/hiyorika/
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