福井匠流くんが「マイプロジェクト」を経て気づく「父の背中」から受けた学び。父と子それぞれ挑戦した3年間

今回はこの春から大学1年生、柏崎市出身の福井匠流くんとお父さんでフリーランスデザイナーの福井厚さんに取材をしてきました。
もともと匠流くんとは、とあるイベントで出会ったことをきっかけに、その活動に注目してきた私たち。

「その活動」というのは、実践型探究「全国高校生マイプロジェクト」における、匠流くんのマイプロジェクトである「New Normal Project 〜不登校のミカタ〜」です。

「全国高校生マイプロジェクト」とは、高校生や大学生自らが興味を持ったテーマに対して、課題発見とアクション(行動)やリフレクション(内省)を繰り返して探究していく学びのプログラムです。学生という枠を飛び越えて、”想い”のもとで自由にプロジェクトを形にしていきます。
私自身、このプログラムを知った時は感激しました。答えを誰かに与えられる人生ではなく、自ら探し創っていける人生を歩んでいく、そんな若者を創出するには、学生時代のマイプロジェクトのような体験はきっと本当に価値があるものですよね。

福井匠流くんの”マイプロジェクト”

さて、福井匠流くんのプロジェクトである「New Normal Project 〜不登校のミカタ〜」とは、匠流くん自身の不登校になってしまった友人に対する想いから始まったもの。元々は「学校復帰のための不登校支援」を目指して始まりましたが、匠流くん自身が100人近くの方と対話をすることで、見えてきたものがありました。それを匠流くんは「3つのミカタ」と表現しています。
1つは「世の中の見方を変える」、次に「不登校生の味方になる」、最後に「これからの歩み方を考える」です。
そこには、そもそも学校が絶対ではない、互いを理解し尊重しあえるような教育への気づきや、対話を通して子ども目線の学び方を模索し続けようとする匠流くんの想いが込められています。

この「New Normal Project 〜不登校のミカタ〜」は、全国約3万プロジェクトのうちサミットに参加した約1,500プロジェクトの中から高い探究生が評価される「ベストラーニング賞」に選ばれ、「全国高校生マイプロジェクト全国summit2021」で表彰されました。

そんな注目の新大学生である福井匠流くん。彼にとって、マイプロジェクトをはじめたこの3年間はどんな時間だったのでしょうか。
その時間に寄り添うべく、これまでに何度かお話を伺ってきましたが、毎度感心するポイントは匠流くんの行動力と継続力。
そこで今回、匠流くんだけではなくお父さん(福井厚さん)にもお話を伺い、匠流くんがマイプロジェクトをはじめたきっかけや心のうちにあるアツい想いにも触れてきました。

ライバルのような、同志のようなおふたりですが、それぞれにとってのこの3年間や過去の経験を辿ると、等身大な親子の姿が見えてきました。

マイプロジェクトから見えてきた将来の自分

マイプロジェクトに取り組む福井匠流くん
マイプロジェクトのアクションとして、子どもたちに講義をする福井匠流くん

ー匠流くんが過ごした高校3年間について教えてください。

福井匠流くん:僕は高校入学してすぐにコロナが流行して休校になってしまい、通学が再開してからも友達を作りづらい状況で数ヶ月過ごしていました。そこで、僕は少しでも話しかけてもらえるように、学級委員長になるなど色んなことにチャレンジしていこうと意識するようになりました。そして、7月の休校明けに宮崎先生が募集していた「マイプロジェクト」に応募し、8月のスタートアップキャンプに参加しました。そこで自分のプロジェクトを見つけ、部活動と並行して2年生の3月まで取り組みました。
部活はサッカー部に所属しましたが、高校1年の冬に持病の腰痛が悪化し、マネージャーに転向して3年生まで続けました。

 

ーマイプロジェクト、スタートアップキャンプとはなんですか?そしてなぜ参加しようと思ったのですか。

福井匠流くん:マイプロジェクトとは、​​興味を持ったテーマについて、自ら調査・研究を行い、探究を深めていく全国的なプロジェクト学習のことで、宮崎先生はマイプロジェクトを新潟でやろうと発起した先生です。スタートアップキャンプは、オンラインで数日間かけて開催されるプログラムで、自分のプロジェクトテーマを探す中で大人からのアドバイスやサポートを得られます。

僕がマイプロジェクトに参加しようと思った1番の理由は、入学当初に父から「(匠流くんの通う高校に)宮崎先生というおもしろい方がいるよ」と聞いていて気になっていたことと、父自身もマイプロジェクトのスタートアップキャンプに似たようなイベント「スタートアップウィークエンド」というものに参加していて、楽しそうだなと思っていたからです。

 

ーマイプロジェクトはどんな時にどんなふうに取り組んでいたのですか。部活や勉強で忙しいのに、大変だったのでは?

福井匠流くん:マイプロの活動は勉強や部活の合間を縫って取り組んでいました。内容は、資料作成やリサーチ、アポどりなどで、通学中の電車内でスマホを使って作業をしていました。家に帰ってからは、授業で出された課題をやったり、痛めている腰のケアをしたりしつつ、ZOOMを使ってマイプロジェクト関係でアポが取れた方に話を聞いたりしていました。部活がない土日は、積極的にマイプロジェクトに取り組むようにしていました。

 

ー部活でプレーヤーを続けられなくなった時に、退部ではなくマネージャーの道を選んだことはどんな考え方による選択だったのでしょう。

福井匠流くん:怪我をしてプレーができなくとも、他の関わり方があると思ったんです。辞めるよりもコミュニティにいることに価値を感じていましたし、マネージャーといっても指導者やトレーナーに近いことをさせてもらって、これまでとはまた違う経験ができたのも良かったです。

選手としての大変さも知っていたからこそ、選手より先回りして動くことを心がけていました。その中で、怪我をしないトレーニング方法や、プレイヤ―の時には分からなかった色んな視点に気づくことができたんです。時には選手としてプレイしたくなる気持ちもありましたが、それ以上にマネージャーを楽しめていたと思っています。また、サッカーに関わらず、物事に対してたくさんの関わり方があって、それぞれにできることがあるというのにも気づけました。

 

サッカー試合の審判をする福井匠流くん

 

ーその気づきは、マイプロジェクトやそのほかの活動にも活かされそうですね。

福井匠流くん:逆に、マイプロジェクトで培ったことを部活などで活かせていたのかもしれません。マイプロジェクトは、「課題設定→情報収集→分析→振り返り」を自分の中でひたすら繰り返します。この意識を活かせていたから、部活でもマネージャーという立場を楽しめていたのだと思います。今後どうやって選手をサポートしたらいいのか、チームの目標をどのように設定したらいいのかなど、自分個人のことだけでなくチーム全体もマイプロジェクトとして考えていたのかなと思います。

実際に、3年の時に数週間だけコーチを経験させてもらったことがあったのですが、その際にプレーの上達はもちろん、探究的な指導というところも意識的に取り組んでみたんです。マイプロで学んだ課題解決サイクルを、1人1人のプレーやチームの課題に落とし込み一緒に探究することで、例えば、後輩からの「〇〇が上手くいかないんです…」という相談が数週間後には「〇〇がうまくいかないから、△△してみようと思うのですが、どう思いますか」という相談に変わっていきました。こうして、少しずつ変化していく後輩たちを見ることができて、すごく嬉しかったです。マイプロジェクトも、スポーツも、学習も、探究的に取り組んでいく方法をもっと広めていきたいと思うようになりました。

 

ー忙しい高校3年間の中で、マイプロジェクトを投げ出したくなる時はありませんでしたか。

福井匠流くん:マイプロジェクトはやるもやらないも自由なので、基本的に嫌になったら休んでいました。
サッカー部でプレイしていた時は、怪我のケアや歩きにくさに付き合わなくてはいけないのが面倒で、日々模索していました。そのせいで勉強にもマイプロジェクトにも気持ちが向かない時もありました。

 

ーそんな日々の中、どうやって進路を見つけていったのでしょうか。

福井匠流くん:僕は教育学部を志望していたので、最初は一般選抜を想定していました。でも、学校の先生から総合型選抜を勧めてもらって、2年の冬から3年の夏くらいまで総合型選抜を利用できる大学を調べて、志望したい大学が見つかったので、総合型選抜を利用することに。大学調べや受験対策をしながら、自分のやりたいことも取捨選択しました。

 

ー最終的にその大学、その学部へ進学する決め手となった部分はなんだったのでしょうか。

福井匠流くん:僕はもともと英語教師になりたくて、教育学部を探していたんです。しかし、マイプロジェクトなどを通じてNPO法人みらいずworksのような学校の外から教育に携わる機関のことを知れて、学校の外からも教育に触れることはできるなと思いました。自分が海外へ行った経験をもとに、英語を通して異文化を体感してもらう授業がやりたかったので、今の日本の”暗記に頼る英語教育”ではないところで活動できればなと。そこで、学校以外の塾や家庭環境からアプローチする教育を探求できる桜美林大学の教育探究科学部を志望しました。

 

ー大学卒業後のことは、どのようにイメージしているのですか。

福井匠流くん:僕の地元の柏崎市は、2050年には消滅すると言われている地域なんです。そんな課題もあることから、柏崎に戻りたい思いは強くあります。
また、僕の周囲には柏崎の未来のために活動している面白い大人たちがたくさんいるので、その人たちとも一緒に何かできればなと思っています。