今回は、新潟と横浜の2拠点を中心に、全国各地で公共建築やまちづくりに携わる建築家、大沢雄城さんにお話を伺ってきました。
「やりたいこと」はなんとなく決まっていたとしても、そこへの辿り着き方や、それができる職業が何なのかがわからない、という方って意外といますよね。高校、大学生であればなおさらでしょうし、そこに進路が絡んで大きな悩みとなっている人もいるかもしれません。
取材をさせていただいた大沢さんも、悩みに悩み、迷いに迷った学生の1人でした。
「やりたいこと」への「なり方」が分からずに、手探りに進んだ大沢さんの道から、あなたの道を切り開くヒントが見つかるかもしれません。
- 大沢 雄城さん
おおさわ ゆうき|建築家
1989年新潟生まれ。2012年横浜国立大学卒業、同年に株式会社オンデザインパートナーズへ入社。
横浜にて、まちづくりやエリアマネジメントなどの都市戦略の企画から実践まで取り組む。遊休不動産等のリノベーションによるクリエイティブ拠点の企画設計からコミュニティマネジメントなども手掛ける。主な担当プロジェクトとして横浜DeNAベイスターズが仕掛けるまちづくり「THE BAYSとコミュニティボールパーク化構想」、新潟市上古町商店街の複合拠点「SAN」等。
2021年より新潟市にオンデザインパートナーズ新潟オフィスを開設。横浜と新潟の2拠点で活動を展開。
株式会社オンデザインパートナーズ公式HP:http://www.ondesign.co.jp/
まちが作りだすカルチャーが好きになった
ー大沢さんはなぜ建築家を志したのでしょうか。
大沢雄城さん:デザインに興味があったからです。高校生の時、古着やライブハウスなどが好きで古町によく通っていました。当時は、古着屋もたくさんあったし、バンドシーンも盛り上がっていたし、2021年に私が設計した「上古町の百年長屋SAN」を運営するヒッコリースリートラベラーズというデザインチームが上古町エリアを盛り上げていたりして、古町やまちなかのカルチャーそのものが好きになったんです。
そんな中、たまたま雑誌で建築家の仕事を知って、建物や街をデザインする職種に興味を持って建築家を志しました。
ー家を設計するというよりも、「街」と「デザイン」のかけ合わせに惹かれたのですね。
大沢雄城さん:そうなんです。私が進学した横浜国立大学の建築学コースは都市建築に特化しているところで、街やデザインに興味があった私にはピッタリな領域だと思いました。実際に講義では、設計図を書くことよりも、建物がこの街にとってどうあるべきか、どういう機能を持たせるべきかのリサーチや分析が多かったです。それは今にも繋がっていて、建物単体をみるより街の中、環境の中でどうあるべきかという視点を学ぶことができました。
「まち × カルチャー × デザイン」って、どんな職業?
ー株式会社オンデザインパートナーズ(以下、オンデザイン)との出会いを教えてください。
大沢雄城さん:まず前提として、私は建築することよりも、「まちのカルチャー」や「デザイン」の視点からまちに面白く関わることがしたかったんです。でも、それができる仕事が何なのか、建築を学ぶほどわからなくなっていって。
悩んだ挙句、WEBマガジンの編集者になろうと考えていたんです。
ーWEBマガジンの編集者ですか!?突然ですね!
大沢雄城さん:そうです(笑)当時WEBマガジンが出始めの頃だったので、編集者としてカルチャーやまちにアプローチしていったら面白いんじゃないかと思っていました。実際に、カルチャー系のWEBマガジンの編集部でインターンをしていたりもしていました。
そんな時に東日本大震災が起こり、大学の先輩から誘われ、復興の様子を収めるドキュメンタリーを制作するために被災地に向かいました。
そこで関わることになったのが、石巻の「川開き祭り」を復興させるプロジェクトに取り組んでいた復興支援団体「ISHINOMAKI2.0」です。このプロジェクトには後にお世話になるオンデザインや有名な広告代理店など、様々な大人や企業が関わっており、「以前の川開き祭りを復元するのではなく、アップデートする」というコンセプトのもと新しくユニークな企画がどんどん生み出されていました。私にとっては、そこでの経験がとてもおもしろかったんですよね。
ー「川開き祭り」は具体的にどんなお祭りへとアップデートされたのでしょうか。
大沢雄城さん:ストリート系のアーティストをお祭りに呼んでブロックパーティーのようなライブをしたり、海外の建築学生と一緒に復興まちづくりワークショップなどをしていました。それを見て、被災地でも、こんなに前向きにまちを楽しくすることができるんだと衝撃を受けました。
そんな経験から、「WEBマガジンの編集者として数々の事例を紹介するのもいいけれど、やはり何かをつくる側になった方がおもしろいのではないか」と思いはじめたんです。
また、自由な発想を次々と生み出す大人に触れて、「建築を設計するだけじゃない建築家」がいてもいいんじゃないかと思ったんです。
そんな働き方を実現したいとオンデザインのボスの西田さんに相談したところ、拾ってもらうことになりました。
ー「拾ってもらった」には、どういう意味が含まれているのでしょうか。
大沢雄城さん:あ、実は大学卒業直後の数ヶ月間、私にはニートのような時期があったんです。当時の私は、それを「ニート」ではなく「独立して仕事がない時期」なのだと言い張っていたんですけどね(笑)
建築学科は大学院に進学する人が多く、当時私の周囲には大学卒業後に就職する人はあまりいませんでした。
私の場合、WEBマガジンの編集者を目指して建築の道から外れようとしていたので、大学院進学は考えていなかったんです。しかし、石巻での経験を経たことで、改めて建築学科の大学院に進学したいと思うようになりました。
そこで、友人から進学手段を聞くと、まさかの進学に必要な試験はすでに終わっていたんです。
そうこうしているうちに卒業設計などで忙しくなり、気がついたら何も決まっていないまま大学卒業の日を迎えることに(笑)
仕方ないので新潟の実家に戻って、2ヶ月間ほどひたすら映画を観つづける生活をしていたとき「さすがにこのままではいけない」と自覚し、オンデザインのボスの西田さんに相談したんです。
ー文字通り「拾ってもらった」だったのですね!(笑)
まちをイキイキさせる仕事を、全国各地で経験
ーオンデザインではどのような仕事(活動)をなさっているのですか。
大沢雄城さん:オンデザインはもともと住宅設計が主軸でしたが、私が入社した頃、会社としても石巻での活動を機に新たな人脈とノウハウが形成され、まちをデザインする新しい事業も展開していくときだったんです。
「石巻で培ったノウハウを他の地でもまちづくりに活かしてほしい」といったカタチで、全国のまちづくりの仕事に関わり始めていきました。
具体的には、鉄道会社と一緒に駅前再開発のような計画に反映するような大きな規模のものもあれば、一方で、駅前に拠点施設を作って地域の人々と一緒にマルシェイベントを企画実施したりなど。まちをイキイキさせるために必要なことは、川上から川下までなんでも携わります。
一過性のイベントを計画するより、10年後、50年後にまちがこうなっていて欲しいというビジョンを実現するために、今何をするべきか。私がまさにやりたかったことでした。これは今となってはオンデザインにも私自身にも重要なスタンスの一つです。
ー大沢さんたちが新潟で手がけている「8BAN PARK(本町の立体駐車場屋上で開催されているマーケットイベント)」も、まちをイキイキさせるための取り組みですよね。
大沢雄城さん:私たちは「8BAN PARK」や「ISHINOMAKI2.0」のような、市民が主体となってまちを変えていく取り組みを「ボトムアップ型まちづくり」と呼んでいます。行政では補えない、民間の立場から自主的にやるから叶う、そこに暮らす人々によるまちづくりですね。
場所や仕事も自由で柔軟に、新しい独立スタイル
ー横浜を拠点に全国各地で活動されている大沢さんですが、なぜ新潟にUターンしようと思ったのでしょうか。
大沢雄城さん:リモートを活用すれば新潟でも今までと変わらずに仕事ができたので、子育て環境なども考慮してUターンを決めました。さらにもう1つ理由として、まちづくりの解像度を上げたかったからです。
大企業とお仕事をする場合、我々はあくまでも「伴走者」であり、直接活動し、まちを変えていくプレイヤーではありません。もっと当事者に近づいて、身近にまちに入り込みたいと思ったとき、自分のルーツである新潟に帰ってみようかなと思ったんです。
また、「これからは地方都市がアツいぞ」と思っていた部分もありますね。
ー今はどんなスタイルで働いているのでしょうか。
大沢雄城さん:ひと月のうち1週間ほどは横浜で、それ以外は新潟にいます。仕事はオンラインとオフラインを組み合わせて、柔軟に対応しています。仕事には波があるので、横浜での業務が忙しい時は新潟にいないことが多かったり。
新潟で請け負っている仕事は、個人事業主としてだったり、オンデザインパートナーズ新潟オフィスとしてだったり、仕事によって受け皿を使い分けています。とはいえ、ガツガツ営業をして仕事を拡大していくわけではなく、基本的には人との繋がりで舞い込んでくるお仕事を楽しみながらやらせてもらっています。
ー会社員とフリーランス、横浜と新潟など、動きの幅が広いワークスタイルですね。
大沢雄城さん:まさにそうです。
二足の草鞋のように活動しているので、新潟のローカルなプロジェクトも、横浜での大規模なプロジェクトにも、同時に関われるのが面白いところかなと思います。ある意味で会社員というよりも新しい独立のカタチと言ってもいいかもしれません。
私は起業したいというより、まちに関わってそこに必要なことを適切なカタチでやりたいんです。プロジェクトに応じて、新潟の仲間とチームを組んで取り組むこともあれば、オンデザインのメンバーでチームを組むこともあるし、とにかく自由に柔軟に取り組むことができる環境は、すごく幸せなスタイルだと思います。
大沢さんにとっての「新潟」と「ジブン」
ー2拠点生活をする大沢さんにとって、新潟はどんな場所ですか。
大沢雄城さん:新潟も横浜もどちらも港町なので、新しい人に対してオープンに接してくれる軽やかな雰囲気があると思っています。
仮にここが目的地ではなくても、流れで行き着いてしまう、流れで居ついてしまう。知らない人に対して、「どこ(場所)の人か」ではなく「どんな人か」を大切にしている場所だと感じています。
その上で、新潟や古町は原体験がある大切で大好きな場所ではありますが、正直なところ、住んだり仕事をするのは必ずしも新潟や横浜でなくてもいいと思っています。さらに、本当の意味での「土地の人」つまり「土地に縛られた人」ではないので、いつでもどこへでも動くことができると思っています。
しかし、それでもなぜ私は今ここにいるのかというと、新潟にはおもしろい人や、おもしろいことをやっている人が沢山いるからです。新潟での人との繋がりが好きですし、楽しいからここに居たいんですよね。おもしろいまち、おもしろい人が、いま私がここにいるモチベーションなんです。
ー最後に伺いますね。学生時代、ご自身のやりたいことが「建築家」なのか何なのか分からず模索されていた大沢さんですが、いま、ご自身は何者だと考えていますか。
大沢雄城さん:「まちを面白くする人」ですかね。建築家と名乗っていますが、実はそれは相手にとって自分のことを説明しやすいから使っているだけで、自分ではあまりそう思っていません。実際に、図面を描く仕事よりも企画を考えたりする方が多いですし(笑)
建築家以外だと、コミュニティマネージャーとかプロデューサーでもない気がしていて。でも、やりたいことはずっと明確でした。
だから、「まちを面白くする人」くらいラフな肩書きが、1番しっくりきます。
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今回取材させていただいた大沢雄城さんは、特定の拠点や働き方、所属に拠らず、自由なスタイルでまちをイキイキさせるお仕事を体現されています。お話を聞いていると、その自由で柔軟なワークスタイルの中心には、強くて揺るがない想いがあるのだと感じました。
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