山﨑建設3代目社長の山﨑健太郎さんにインタビュー!100年以上妙高を支える老舗ゼネコンが踏み出す、新たな挑戦とは

山﨑建設 山﨑健太郎社長

今回は妙高市にある山﨑建設の3代目社長、健太郎さんにお話を伺ってきました。

高校卒業までは、地元である妙高市(旧新井町)で育った山﨑さん。
大学進学を機に上京し、自由に自己選択できる環境の中で様々な経験を経て、30歳で地元へUターンします。
建設業のイロハも分からぬまま、家業である山﨑建設に入社。
土地のことや業界のことを学びながら会社を支え、入社12年目の2022年に代表取締役へ就任。

近年、SDGsへの取り組みが注目されている山崎建設。
地域課題の解決を目指すプロジェクト「MYOKO UPCYCLE MARKET(ミョウコウ アップサイクル マーケット)」を進めており、建設業から「持続可能な社会」を支えるため【廃材活用】【空家再生】【集落創生】という3つのミッションに取り組んでいます。

取材の中では、3代目社長としてのリアルや、会社と地域への想いなどを聞かせていただきました。
「後継の在り方」「少子化する地域の未来」などの課題に直面する方には、とても共感や学びが多いお話です。

育った地域は好きだけど未来を描く上で不安を感じている方、地方での会社経営に奮闘している方へのヒントがたくさんあります。

 

どんな状況も、捉え方次第で楽しくできる

山﨑建設 山﨑健太郎社長の東京時代

ー幼少期〜学生時代の山﨑さんのことを教えてください。

山﨑さん:私は新潟県の妙高市(旧新井市)の、ごく一般的な家庭で育ちました。その時は祖父が山﨑建設の初代社長を務めており、父は役員として働いていました。父や祖父は厳格な人ではないですが、3世代で同居している中で、家族1人1人が父と祖父のことを一家の大黒柱、家長であると分かっている感じでした。

子供のころは、1つ違いの妹や近所の子と外で遊ぶことが多かったです。みんなで近所の畑に忍び込んだり、アジトをつくったりして遊んでいました。中学高校では剣道部に所属し、あまり自ら表に出るようなことはしませんでしたね。

大学進学のタイミングで、見聞を広めようと上京しました。個人主義の確立された東京という街の社会は私にとっては合っていた気がします。いま思うと、それまでは用意されているレールの上を走っていたような感じで、自分の我を通さなかったところがありました。でも上京して、一人暮らしをして、全部自分で決めることができるようになって、自由になった感覚から、解き放たれた気分になったんです。その結果、遊びや趣味にのめり込んで大学を留年してしまい、就職氷河期の最中に卒業。そのまま東京で元々興味のあったアパレル関係の会社に滑り込みました。

 

ー社会人になってからは、どんな経験を積まれましたか。

山﨑さん:社会人として約10年間を東京で過ごしましたが、アウトドア系のアパレル会社、印刷会社、出版社、WEB制作会社の営業職というように、常に人と接して人にモノを提案し販売する場に身を置いてきたように思います。

3社目の出版社では、芸能人とともに中小企業の経営者にインタビュー取材を行う企画を提案するという、一般的な出版社の営業とは少し変わったことをしていました。取材アポイントをとるために1日500~800件くらい電話を掛けたり、インタビュアーである芸能人の運転手をしたり、まるで芸能マネージャーのようなスケジュール調整業務などもしました(笑)ここは2年もしないうちに退職しましたが、とても営業力を鍛えられたと思います。

ここまで地元にUターンする気は全くなかったのですが、結婚などの将来を考えはじめたこともあり、自分は祖父や父が会社で稼いだお金でご飯を食べさせてもらっていたんだなと思えるようになった時期があって、新潟に戻る決意をしました。

 

ーそれぞれの転職は、どんなお考えやタイミングで行動されていたのでしょうか。

山﨑さん:東京でいろいろ経験したいと思って上京したこともあり、自分が次にやりたいと思ったことをするために転職してました。”やりたいこと”はその時々で変化していましたが、人間関係とか職場環境が嫌だから辞めるということはしない、とだけはずっと変わらずに決めていたことです。

 

ー人の縁に恵まれていたからこそ、そう思えていたのでしょうか。

山﨑さん:そうかもしれませんね。私はどんな環境でも物事は”捉え方次第”だと思っているところがあります。辛いとか困難な状況だと感じるか、楽しい面白いと感じるかはその人次第です。だから辛いことがあってもどこか楽しく感じるように心がけてはいましたね。

 

戻ってきて分かった、地方のリアル

山﨑建設 山﨑健太郎社長の代表就任前時代

ー東京の暮らしが合っていると実感されていた中、地元へUターンしてからの暮らしや仕事に不安はなかったのですか。

山﨑さん:プライベートに関しては手軽にアウトドアを楽しめるところがいいなと思っていましたし、仕事も東京での経験があれば地元でも何とかなるだろうと甘く考えていました。これまで学んできたものや見てきたものを、どう活かそうかというワクワクの方が最初は大きかったような気がします。

 

ー社長になる前はどのような経験を積まれてきたのですか。

山﨑さん:30歳から地元の青年会議所(以下、JC)に所属しました。そこでだいぶ修行させてもらいましたね。JCをきっかけに、街の問題に目を向け始めました。人口減少がいかに深刻かを知って、その地域の政治や人間関係に触れていきましたが、なかなか一筋縄ではいかず、最初のワクワクが徐々にリアルな問題意識に変わっていきました。JCでの活動に傾倒しながら、会社では建設業のイロハを学んだ10年間でしたね。

 

ー入社当初の会社内で、山﨑さんはどのような部署や立ちまわり位置だったのでしょうか。

山﨑さん:最初はまず個人住宅の販売営業部に配属されました。
営業は10年経験していたのですが、建設や住宅の知識は全くないので大変でした。なので社員に教えてもらいながら仕事をこなしていました。車で営業先を回ることで土地勘を取り戻すことができたのは良かったですね。

 

建設業から、未来のためにできること

山﨑建設 廃材活用ミッション
山﨑建設×新井中央小学校SDGsアート制作プロジェクト

ー社員さんは山﨑さんより先輩の方が多いとお見受けしました。そのような組織を引っ張っていく難しさは多分にあると思いますが、実際どうでしょうか。

山﨑さん:先輩社員の方々も、私が”後継ぎ”という立場だから、ある程度納得してくれている部分はあると思います。私自身も肩書きに頼らずフェアな関係性でいたいのですが、オーナー会社を経営する家に生まれてきた宿命は変えられないので、逆にそれを武器にしてみんなと上手く付き合えたらなと思います。

社長になってさらに思うのは、「社長は10年、20年先を見て会社を動かそうとするけど、社員は目の前を楽しく幸せに過ごせる環境や生活が最優先として大切である」ということです。社員に寄り添った環境やビジョンを用意することが、経営者としてあるべき姿だと思っているので、やるんだったら社員も楽しくやれるように心がけています。

うちの会社は60人ほどですが、それぞれ性別も職歴も年齢もバラバラで多種多様なんです。当然、考え方も十人十色なので、ひとつのビジョンのもとにまとめることは、私にとっては容易ではありません。例えば、SDGsへの意識を高めて企業価値を上げているつもりでも、それを全員に理解してもらうことは難しかったりします。まずは事業以前に私自身が社員に信頼してもらえるよう努力し、私という人間を分かってもらう地道な行動が大切だと感じています。

 

ー山﨑さんは自分自身に対して、社長に向いていないなと思う瞬間などはありますか。

山﨑さん:うちは世代も価値観もバラエティに富んだ社員たちなので、物事を伝える際に1パターンの言い方をしても伝わらないんです。だから、日々伝え方や言葉選びを模索していますが、まだ上手く伝わらない部分も多く、イライラしてしまうこともしばしばなので、日々向いていないなと思って仕事していますよ。

私は元々、音楽などのサブカルチャーが大好きで、それに携わる仕事を一人で自由気ままにやりたいと思っていた人間なので、なおさら向いていないと思います(笑)

でも、私はその音楽がリフレッシュになっていたり、寝ると嫌なことを忘れられたりするんです。自分のリフレッシュ方法を分かっているので、社長を続けられているのかなと思います。

山﨑建設 ミョウコウアップサイクルマーケット関連
上越市立歴史博物館内に設けられた「MYOKO UPCYCLE MARKET」のポップアップストア

 

ー30代でのご経験は、現在の山﨑建設代表というお立場にて、どのように活かされていますか。会社や地域における今後の展望と共にお伺いできたらと思います。

山﨑さん:30歳にして地元に帰ってきてからの10年間、JCの活動などを通じて、街について考えたことやSDGsを経営と結び付けようと思い始めるきっかけを得られたことが、現在の私にとってはとても大きく影響しています。

私の会社は個人のお客さまの家も建てますが、税金で賄われる道路建設などの公共事業がほとんどです。私たちの仕事現場は上越や妙高なので、そこの人口が減ってしまうとインフラ整備事業も行われなくなり、仕事ができなくなるんです。道路整備がされなくなると、劣化が進んで周辺住民や道路利用者の安全にも影響を及ぼします。なおさら人口流出も進んでしまいますよね。そう考えると、人口減少問題って思ったよりも深刻で…。

そこで、建設会社として何かできないかと考えたのが、空き家をリフォームし地域外の人に借りてもらい移住促進につなげようという取り組みや廃材活用の取り組みです。

これまで、当社が長年工事に携わらせていただいてきた所縁ある地域でも限界集落化が進み、空き家の問題が深刻化しています。それが妙高市の平丸という地域です。そこでは地滑りが多発していて、それを防止する工事をこれまで数多く行ってきました。

その中で1度雪崩が起こって女性3人が亡くなってしまうという事故がありました。今でも慰霊碑の管理や黙とうをします。このような痛ましい歴史も含め、当社にとって平丸はとても大切な地域なんです。ですので、少しでも平丸に恩返しが出来たらいいなと思っています。

地元住民の中には、押し付けともとれる地域振興活動を望んでいない方も少なくありません。でも私たちは、思い入れのある地域の歴史を残したいと思っています。そのバランスもとりつつ、もう少し前向きになれる瞬間が来るように活動を続けていきたいなと思っています。

 

ー集落の行く末を考えるには地域の方々の意志も必要不可欠ですよね。

山﨑さん:外部の人間がイベントを起ち上げて地域を盛り上げようとするのはよく聞く話かと思いますが、地域活性とは一過性で行うものではありません。地域の方々の声を聞き、足並みを合わせて歩んでいく地味で根気のいる長い道のりです。実際、私自身も現実を目の当たりにして先が見えないように感じることもあるのですが、今日まで連綿と地元住民の皆様が紡いできた集落の歴史というものは、しっかりと後世に残していくべきだと考えています。

ですので、このような構想が実現した際には、移住してくれた方もこの地域を愛してくれたらいいな、それでこの地域が徐々に元気になってくれたらいいなと思います。

うちの社員も平丸の現場に携わってきた人間ばかりなので、平丸を守ることに対して、とても前向きに協力してくれます。最近、退職した社員が何十年も平丸に携わってくれていた方なのですが、辞めた後も平丸と会社をつなげてくれようとしてくれていて。社長として、地域を愛してくれる社員たちを、これからも大切にしていきたいですね。

 

山﨑建設 空家再生ミッション

 

***

 

今回は、山﨑建設3代目社長の山﨑健太郎さんにお話を伺ってきました。

等身大のエピソードや、ビジョンの中から、地域と会社をつなぐための真髄のようなお話を聞かせていただきました。

人や環境に対して、”どんな時も自分がどう受け取るか次第”と語ってくださった言葉からは、
山﨑建設の3代目代表としての力強さを感じました。

建設業から巻き起こす、アップサイクルや地方創生のイノベーション。
山﨑建設と妙高の、100年先へと続く道を見せていただいた気がします。

 

山﨑 健太郎さん
やまざき けんたろう|経営者


1980年生まれ、新潟県妙高市(旧新井町)出身。大学進学を機に上京。様々な営業職を経て、家業である山﨑建設へ入社。住宅の営業担当を経て2022年に代表取締役へ就任。地域創生を会社のビジョンとして空き家リフォームや廃材活用に挑戦中。

山﨑建設HP:https://www.yamazaki-k.co.jp/

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