SUZUグループ代表の鈴木将さんが考える、新潟フードビジネスにおける経営デザインとは

Sho-Suzuki

<今回お話を伺った人物>

鈴木 将さん
すずき しょう|オーナーシェフ・食文化プロデューサー


高校卒業後、長野・大阪・東京・横浜での料理修行を経て、2007年に地元・新潟県長岡市で「おれっちの炙屋 ちぃぼう」(2017年に「越後炉ばたと雪国地酒 ちぃぼう」にリニューアル)をオープン。その後、ケータリングカー「FOOD TRUCK SUZU365」や、食のグローサリーストア「SUZU365」、食を通じた観光体験をテーマにした「niigata food campus SUZUVEL&TABI BAR」など、様々なスタイルの店舗を新潟県内に展開。食文化プロデューサーとして「畑ごはん塾」「やさいの学校」「CHEFS CARAVAN」等、地域の魅力を伝えるイベントの主催・参加や、地域食材を活かした商品「SHOSUZUKI NIIGATA」「おむすびJAM」「ジョニーディップソース」などの開発も多数手がける。

SUZU GROUP公式HP:https://suzugroup.com/

 

今回は、SUZUグループ代表取締役社長の鈴木 将さんに取材させていただきました。

ご両親が元々飲食店を経営していた鈴木将さんにとって、飲食の道に進むこと自体は必然の選択だったと思います。しかし、その道と真剣に向き合い、使命に気づいて全うしようとするまでには、何度も意識の転換があったのだとか。

数々の魅力的な商品や料理をうみ出すSUZUグループですが、何のために商品を生み出すのか、鈴木将さん自身は何のために”働く”のか。その原動力となる想いに触れてきました。

 

敷かれたレールとやりたいことの乖離

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高校時代に出場した駅伝大会での写真(前列、右から4番目が鈴木将さん)

ー鈴木さんはなぜ飲食の道に進まれたのでしょうか。

鈴木 将さん:きっかけは僕の父親が飲食店を経営していたからです。小学校の頃から、俺のアトを継げと言われており、お店の手伝いをしたりすることもあったので、必然の選択でした。
しかし高校生くらいの年頃には、父親と同じ道を歩むことを嫌だと思っていたりもしたんです。うちは、全国展開している大手居酒屋チェーンのフランチャイズとして店を営んでいたのですが、そのオリジナリティの無さなどに抵抗感があったんです。

むしろ洋服などが好きだったこともあって、アパレルやデザインの仕事に興味を抱いていました。でも、当時は家庭の状況などから「進学という選択肢はないぞ」と父から言われていて。
でもやっぱり進学したくて、相談してみたところ「とりあえず1年でいいから、居酒屋チェーンの本社で働いてみないか」と言われ、進学のためのお金も貯められるし、1年だけと思って本社で働きました。
そして1年後、学費もある程度貯まり、本社を退職して、進学する学校も決めたりしていました。しかし、1年間働いたことで飲食の大変さを知り、「こんな大変な仕事で俺は育てられたんだな」と、なんだか親に申し訳なくなったんですよね。
そこで、進学をする前に、一旦実家の店で働くことにしたんです。
約2年間、実家で働いていると、次第に「なんか、このままじゃいけない」と思ったんです。親のためだけにここにいるのではなく、もっと勉強して何かを見つけたいと。
そんな時に、大阪でたまたま訪れた創作料理レストランで、提供されたお料理に感銘を受けるような体験をしました。料理が、すごく綺麗に盛りつられていて、見せ方、サービス、細かい所までデザインされている。その時に、直感的に「料理ってデザインできるものなんだ」と感じ、自分がやってきた料理と、元々やりたかったデザインが繋がったんです。
そこから、料理を本気でやりたくなり、父親に説明したうえで大阪に修行させてもらいにいくことになりました。本当の意味での、僕にとっての料理の道に進むスタートになったのは、この大阪でのタイミングだったのかもしれません。

 

料理はデザインできる

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ー本腰を入れて、料理に真剣に向き合うようになったのは、大阪での体験がきっかけだったのですね。実際に働き出してからは、どうでしたか?

鈴木 将さん:そうですね。まず、もうめちゃくちゃ忙しかったです。でも、創作料理の最前線のような所に初めて触れたことで、料理の考え方の幅がすごく広がりましたね。レシピだけでなく、見せ方そのものの考え方の原体験をここで得られました。
もう20年も前になる当時は、今ほど創作料理のバラエティが広くはなかったんです。創作料理そのものがまだ駆け出しで、店によってはお刺身にマヨネーズをかければ創作料理だろう、みたいな具合でした。
僕が働かせてもらったお店は、フレンチや中華、イタリアン、和食などあらゆる経歴を持ったシェフたちが集まり、表現の仕方や仕込みなどにいろんなアイデンティティを掛け合わせて創作料理を生み出しているところでした。もう厨房は、側から見たらカオスでしたね(笑)
そんな環境にとても刺激を受けたことと、さらには場所が大阪だったために京野菜をはじめとする伝統野菜がたくさん集まってきて、それらの魅力をうまく料理でひき出していました。聖護院蕪(しょうごいんかぶら)や万願寺唐辛子など、聞いたこともないような野菜の魅力を料理によって引き出すことが、楽しくて仕方がないくらい夢中になって学んでいきました。
創作料理に魅せられ、大阪を後にしてからは、東京や横浜など、いろんな場所でノウハウや経営を学ばせていただきました。

 

ーその後、お父様がフランチャイズを辞めて自らの居酒屋を開くタイミングで、実家に戻られたのですね。大阪や東京などでのご経験は、その後どう影響されたのでしょう?

鈴木 将さん:そうですね。ゆくゆくは自分で独立してお店を出したかったことと、子供の時から父の姿を見てきたこともあり、料理だけでなく経営や人(スタッフ)の育て方なども意識して学んできました。
そんな中、父がお店を開こうとしており、半分心配もあって帰ってくることにしたんです。
なので開業当初は、やはり天狗になっていた部分もあったんです。最初のお店「おれっちの炙家 ちぃぼう(現 越後炉端と雪国地酒ちぃぼう)」は長岡市の住宅街の中にポツンとあるようなお店なんです。立地的には、気づかれにくいような所にあるのですが、店内も改装して素敵に仕上がっているし、今までの知見を活かした自信作メニューも考案したので、当然お客さんも入るだろうと思っていました。
しかし、それは完全に勝手な妄想で、初日にきてくれたお客さんは2組だけだったんです。知り合い客は来てくれていても、当然ですが毎日来るわけではありません。客足が伸びず、完全に出鼻を挫かれましたね。
これだけお客さんが来ないのに、この人数の従業員を抱えていたら長くは持たないだろうということは、これまでの経験から容易に想像はつきました。そこからは仕切り直しの日々が始まりました。

 

「このままじゃ終わってしまう」腹をくくった瞬間

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ーどうやって仕切り直したのですか?

鈴木 将さん:こうやって取材に来てもらえるように地元の情報誌などにお願いしたり、月に1度発行される広報誌の小さな一画でいかに読者の目を惹けるか、写真と文章をイチから勉強していきましたね。
新作も、月に1度のペースで考案していたのですが、これは今でもほぼ続いているので、この頃から新作癖がついたのだと思っています。そしたら、開業1周年の頃には結構人気店になっていましたね。

 

ー経営者としては、崖っぷちで毎日気が気じゃない状況だったのでしょうね。

鈴木 将さん:そうそう(笑)元々が大手の居酒屋チェーンだったこともあり、お店を知ってくれている常連さんからは、価格帯が上がったことを怒られたりしてね。そこで昔からの常連さんを大事にしたい父と、きちんとこちらの想いを説明して、それでも離れていってしまう方がいるのは仕方ないと考える僕との間で、相違が生じて喧嘩になってしまったりして。
もうそんな感じの状況の中、オープンから3ヶ月経ったくらいの頃に、「自分に任せてほしい」と父にお願いをして店の経営から離れてもらったんです。トップが2人いるとどうしても割れることだってあるし、僕自身が父に甘えている部分もあったろうし。
そこからはもう全てどうなろうが自分の責任ですから、必死でしたね。これまでは安く飲める居酒屋だったので、従業員の意識転換が必要だったり、ずっと同じ顔ぶれではマンネリ化してしまうので、無理やりにでもお休みを増やしたりして。
代替わりのとっても大事な、とっても大変な時期でしたね。

 

ー当時の鈴木さんはまだ20代。「任せてほしい」と父親に頭を下げるのには、かなり勇気と覚悟がいることでしたよね。

鈴木 将さん:相当な覚悟が必要なことだったなと、今でも思います。でも、そこに至るまでの経験にはすごく誇りを持っていたので、あとは腹を括るだけでしたね。
むしろ、自分で自分に自信を持って「これは間違いじゃない」というために人一倍やってきたのだと思っています。そのために、多少忙しい時だって「こんなに経験させてもらえてラッキーだ」くらいの思いでやってきましたね。そういう下積みって、今はもうできないじゃないですか。だから僕は今も従業員には「自分に投資できるようなことをしなきゃダメだよ」とよく伝えています。
人それぞれタイプがあるで、短時間のインプットだけで自信を持てる人もいると思います。でも、僕はすごく不器用な人間で、色々なことを簡単には覚えられないので、もう体に覚え込ませるしかないのだと分かっていたんです。子どもの頃から物覚えが悪くて、失敗ばかりだった人間なので。

 

農家を訪ねて、市場に回らない価値を発見

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ー今では9店舗も展開するSUZUグループですが、スタート時点にはそんな崖っぷちと覚悟のストーリーがあったのですね。その後、長岡野菜や市場に出せない野菜などに寄り添うようになっていきますが、そこにはどんなストーリーがあるのでしょうか。

鈴木 将さん:変化があったのは「ちぃぼう」の開業から3年目ぐらいの時ですね。最初は僕が各地で学んできた野菜や料理を、長岡の人に提供しようと思ってやってきました。しかし、何気なく普段自転車を漕いでいる地元の道沿いに、そういえば田んぼも畑もたくさんあることに意識が向き始めたんです。大阪にはなかった光景が、地元には当たり前に広がっている。
「これだけ産地が近くにあるのに、八百屋から仕入れて終わりなんて、もったいない!」と思い始めました。

それから、農家さんを訪ねて話を聞いて巡るようになって。ある時、魚沼の農家さんを訪れて差し出された大根のスライスをいただいた時、すっごくみずみずしくて美味しさに感動したんです。でも、こんなに美味しい大根がなぜ市場にはないのかと尋ねると、「これは貯蔵用で葉っぱも落としているから市場価値がないんだ」と知ったんです。農家には市場に出回らないのにこんなにも素晴らしいものがある、きっと他にもたくさん眠っているのだろう、と衝撃を受けました。
そして、その価値を表現して、お客さんに繋いで行けるのが料理なんだと思いました。
長岡や新潟には、ここにしかない食材がたくさんある。なのに、意外と地元民もそれを知らずにいるし、市場に出回っても各地のスーパーに並ぶ商品の一部になっているだけ。
もしくは逆に、都市のスーパーでは高級食材として扱われているのに、地元では棚の隅っこに追いやられているものもあったり。
それでいて、美味しい料理は東京や大阪などの大都市に行って食べれるものというイメージが定着している。
農家さんと話をすればするほどに、その魅力を発見していけたんです。でも同時に「もう自分の代で終わりにしようと思っている」などという言葉も多く聞いて、「今自分達が使っていかないと、そもそも途絶えてしまうかもしれないのだ」と思いました。
いま、この魅力を伝える最後の砦が飲食店なんじゃないのか、と。

 

産地に近い、この場所だからこそ果たせる使命がある

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ー「最後の砦」というのは、飲食業や食にまつわる業界を俯瞰して、全体意識を持っている鈴木 将さんだからこその言葉ですね。

鈴木 将さん:やっぱり、農家さんから直接話を聞く中で、意識がガラッと変わったんですよね。飲食店って目の前のお客様に喜んでもらえることを価値としてやってるのですが、その後ろ側にいる農家さんにも、喜んでもらえる仕組みを作っていけたらもっといろんな人たちの喜びに変えられると思うんです。
それはもう使命感のように考えていて、農家さんと一緒にイベントやったりとか、食の力で何か訴えかけることできないかなと挑戦しています。新潟駅構内に進出した理由も、駅のアンテナショップだからというわけではなく、駅にこそ新潟の食材とお客さんや家庭をつなぐ存在がいた方がいい、という思いです。ここで伝えることが大事だというのが、僕の考え方です。マーケティングの観点では考えてはいません。

 

ー農家さんと会話をしていなければ、この視点には気づけなかったと思いますか?

鈴木 将さん:そうですね。飲食業界の仕事って、もちろん華やかな仕事もありますが、コスト管理などにとにかく意識を向けなくてはいけなくて、大変なんです。人件費と原価率のせめぎ合い、原価を調整するために野菜の仕入れ価格を値切ったりすることもありがち。そのくらいしないと生き残っていけないし、僕自身そうやって学んで、値切りもしてきました。
しかし、それは「飲食業」が大変だと思っていたに過ぎないのだと気がついたんです。いろんな話を聞くと、農家さんもめちゃくちゃ大変で。当たり前のことなのに、知らなかったんです。
「食の仕事」全般が大変な仕事なんだという感覚に変わったからこそ、全体がチームとなって、世の中にちゃんと訴えていかなきゃいけないと思ったんですよね。

 

ーすごく大きな意識転換ですね。具体的には農家さんとどんな連携をされているのでしょうか?

鈴木 将さん:イベントなどの連携もありますが、今は困ったことがあったら農家さんから相談を持ちかけられることが多いです。夏は特に、雨が降った翌日にカンカン照りだったりすると、夏野菜は一気に太るので、しょっちゅう農家さんから電話がかかってきますね。市場に出荷できる量も決まっているので、実り過ぎてしまったときにうちがうまく使ってお金に変えられれば、農家さんだけではなく、うちもコストコントロールできてWIN-WINなんです。一緒になれば、解決できる課題はたくさんありますね。
そういうロールモデルを作りたいです。産地が近いからこそできる助け合いでもありますから、これをローカルの武器にしていきたいですね。

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今回はSUZUグループ代表取締役の鈴木 将さんにお話を伺ってきました。
食に携わることに対して、高校生の頃は「敷かれたレール」のように感じて葛藤していた鈴木 将さんですが、経験から得た気づきが積み重なることで、デザインされた料理、お店経営、食の未来へと視点が変わっていく姿が印象的でした。

取材時も、ありのままの笑顔で私たちを暖かく迎えてくださった鈴木 将さん。

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