株式会社イードア 石川翔太さん Iターンから3年経った今、新潟との向き合い方を振り返る

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株式会社イードアは、東京に本社を構える経営ソリューション会社。同社の地方拠点として初めて設置されたのが、新潟支社です。
首都東京と新潟、全く性質が異なるビジネス圏で、その存在価値をゼロから確立していく。東京と同じことをやるのでは通用しない部分も多く、それはほぼ新しい会社を設立するのに近いものかもしれません。

そんな中、新潟県最大のイノベーション拠点「NINNO(ニーノ)」の発足時からの企業として、地場の課題と向き合いつつ、新潟の未来を描くためのイノベーションのエコシステムを創り出す存在価値を確立。

現在はビジネス系大使職である新潟県IT企業誘致アンバサダーに就任、石川さん自身はスタートアップ2社の役員、駅前ビル保有企業木山産業の執行役員、中小企業庁の嘱託職員、奨学金の財団法人評議員などマルチに活躍されています。
ここに至るまで約3年、株式会社イードア新潟支社長である石川翔太さん自身は、どのように新潟と向き合ってきたのでしょうか。この3年の変化を辿ります。

縁もゆかりもなかった新潟へ

--石川さんが新潟にIターンされた最初の1年間、恐らく模索の時期であったかと思います。当時、進出前から会社として計画されていたことや、それに基づく石川さんの行動などはあったのでしょうか?

石川翔太さん:新潟に進出して半年くらいはまさに模索の時期でしたね。会社も僕自身も縁がなかった新潟という地に、イードアや自分自身がどう受け入れてもらえるのか、何を価値と思っていただけるのか、それが全く分からない状態でした。
具体的な計画が進出前から明確にあったわけではなく、とにかく出会った方に自分の風呂敷を広げて熱量を伝え、自分にできる目の前のことをやっていた気がします。

幸いなことに、進出当初は東京本社から人事担当者が一緒に新潟へ配属されていましたので、新潟での最初の採用も順調に進めてくれました。入社してきて今も共に奔走してくれる齋藤や武藤も、立ち上げの意識をしっかり持って力をつけてくれたので、会社としてはうまく流れを作れたように思います。

ーー石川さん個人としては、立ち上げ期にどんなことを意識されていたのでしょうか?

石川翔太さん:僕個人については、当時とにかく自分のマインドセットを強く意識していました。
キャリアに対する一つの考えとして、東京での生活に刺激が足りない気がしていました。不安もないし、安定的で想像しやすい未来…そこに舞い込んできた新潟移住という展開。
ワクワクしていた反面、当然不安もあって、だからこそ「新卒の頃のようなマインドをもう一度自分にセットしてみよう」と思っていました。

僕の新卒時代はというと、イードア4人目の正社員として入社し、来年会社がある保証などはどこにもない、少しでも自分が会社に貢献して成果を出さないといけない意識を強く持っていました。他の多くのことを差し置いてでも、会社に対して自分ができることに没頭していた感覚ですね。

その気持ちで新潟での事業に投資してみたんです。しかし、当然ですが、Iターン当初の自分は新卒期よりも圧倒的にスキルはついています。
だから、自分のスキル以外は何もない”ゼロの環境”に入れたことで変に過信せず新潟と向き合うことができたと思っています。
やれることを全部やろうとストレートに仕事と向き合い、他を振り切って全ての気持ちを注ぐことができました。

今だから言える話ですが、新潟進出前は経験を積んでいくうちに、自分を過信していた部分もあった気がするんです。
当然、経験を積んでいくうちにできる仕事も増えていきますし、全体のバランス感も理解できつつあったからこそ、自分の中で楽するために無意識に調整をはかってしまうような。それは、一種のスキルでもあるけれど、新卒の頃のようながむしゃらな感覚は薄れていくものです。
だからこそ、30代前半のタイミングで移住して新潟に来て、そんじょそこらでは帰れない!という覚悟で情熱を注げたことは、本当によかったですね。何かを成すために情熱を注げる先として新潟は「新潟のために」という意識を、出会う人すべてが持っていたことも好都合だったと思います。そのための出会いを求める、そんな時期だったように思います。

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ーー今、ご活躍されている石川さんから「新卒マインド」や「不安」という言葉が出てきたことが意外に感じました。

石川翔太さん:もちろん不安はありましたよ。いつまで自分はやれるのだろう、受け入れてもらえるか、うまくやれるかなという不安ですよね。
新卒に戻ることに関しては、マインドだけではなく身なりや行動でも意識していました。髭を剃って髪を短くして、スーツを着ていたり、飲み会での立ち回り方などでも(笑)

しかし、木山産業の代表 木山さんと出会い、親睦を深めていく中で、徐々に余計な気負いは削がれていくようになりました。

当時はイードア新潟支社のオフィスも閑散としていて、今のNINNOのような座組も完成していなかった頃。その中で、Iターンしてきた男が1人ポツンとパソコンに向き合っている姿を見かけて、木山さんがよく声をかけてくれました。
ご飯に誘っていただいたりする中で、自分が考えている新潟の未来の話や、新潟に必要なものの話など、本当にじっくりといろんな話をさせていただきましたね。自分という人間を、最初に受け入れて面白がってくれた方が木山さんでした。

木山さんは、イノベーションに対して自分自身で面白がりつつも、フラットな関係性をこそ重視してくれる方です。だから僕も、変に気を使わずとも熱量さえぶつけていたことで受け入れてもらえたのだと思いますし、まさにその精神から、後に「産産官学Fest*1」のようなオープンイノベーションの場を作ることにも繋げられたのだと思っています。
*1「産産官学Fest」:新潟県内外のイノベーション企業の交流・共創のきっかけを創出するガバメントピッチ

そのご縁をきっかけに、自分のスタイルや考え方を曲げずとも、元々の考え方や喋り方に新潟の未来を掛け算する姿勢を面白がってくれて、認めてもらえる。というよりも新潟の未来を盛り上げる仲間やパートナーとして、声をかけてくれるんだと気がついたんです。
だから、新潟がどうなっていったら面白いのか、新潟の現状や世界の動きを踏まえて、ひたすら自分の考えを資料化して伝えました。当時の僕にできることってそれしかなかったので。

後に、NINNOとイードアで業務提携が結ばれることになり、僕の中でも「NINNOを基軸として、いろんなものを盛り上げていこう」という思いが芽生えました。
そしてNINNOは経済産業省からも共感と支援の構造が成立することとなり、「地域×イノベーション」における強力なブースターへとなっていきました。

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ーー計画的に決まっていたことをしたのではなく、目の前をこなすうちに多くの理解が得られるようになっていったのですね。

石川翔太さん:そうです。強いて言えば、NINNOが立ち上がってからは「新潟のために」をただ考えるのではなく、「新潟にどういうプレイヤーがいるか、自分はその中でどんな立ち位置でいたらいいのか」ということを強く意識していました。
それはNINNO自体も同様で、SN@Pという「0→1」を育てる仕組みが既にできている中で、「1→10」を育てるものが必要だという思考が出来上がっていきました。
NINNOに当初から入っていた企業は、どこも既に「1」にはなっている会社。創業支援ではない、面白い場が必要であると考えておりましたので。

また、当時よく注目を浴びていた「地方創生モデル」なる事例は、多くが福岡や仙台のような規模のある地方都市での事例を目にしていました。しかし、それは新潟やその他多くの地方では汎用性が低く(少なくとも新潟では真似できない)、本当の意味での「地方創生モデル」とは言いにくいものではないかと考えました。
”新潟モデル”のイノベーション成功例を作れれば、全国どこでも真似できる仕組みを創れるのではないかと、その重要性を感じ、さらには新潟が抱える「創業率の低さ」といった問題とも向き合っていけることになると考えたんです。

そこから固まっていったのが、NINNOによる「1→X」の場・構造です。
例えば創業支援という言葉においても、他の地域では「0→1」と「1→10」を一緒に支援することが多いんです。それはふるい分けのための競争が盛んで、プレイヤーも多い地域では成立しやすいかと思いますが、新潟では偏りが生じてしまいます。
一緒にしてしまうことで、「1→X」側に影響されて地域での起業のハードルが上がってしまい、地元の起業家が生まれなくなってしまう。でも、「0→1」側にあわせると「地元レベル」「全国レベル」という言葉で対比されるような印象をまねき、「全国レベル」の人たちは進出しなくなります。
だから、新潟規模の地域は、地域の起業家を生み高みを目指す「0→1」の動きと「1→X」の天井を上げる動きを分け、連動していく必要があると考えたんです。

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ーーその中で、石川さん自身の役割として見えてきたものはなんでしょう?

石川翔太さん:僕自身はイノベーションの天井を上げるための動きをとる必要があると考えました。
一つは、東京や他の地域からイノベーション企業を呼ぶこと、その雰囲気や仕掛けをつくることです。

また、NINNOのようなイノベーション拠点は、他の地域から新潟にはいる玄関口として機能するための存在でもあると思っています。外からの情報が入りやすいところは、情報や技術、クリエイティブなどのイノベーションが起こりやすい。玄関口があれば、住んでいるかどうかに関わらず、離れた地域から来た人でも中の人との交流が計れる。新潟の中の人も、外に出ずともこの玄関口であれば外の人と出会うことができる。
だから、新潟のあらゆる市町村、地域の人・企業にとって、NINNOという場所が玄関口となれるような仕組みを作ることが僕の役割だと考えています。

そこから、「産産官学」の構図*2を考えていきました。オープンイノベーションだけでなく教育研究機関といった学び・育成の要素も重要視しているため、それが現在「NINNO ACADEMIA」でとっている仕組みへと繋がっています。

また、ローカルなイノベーション事例を捉えるときにでてくる、「地方から」というものばかりではその地域にとっての持続可能なイノベーションの論点が抜け落ちてしまうケースがあります。だからこそ、「地方で」といった地域と共にある事を前提としたイノベーションの仕組みこそが日本の地域に必要なのではないかと感じています。
だからこそ、「産産官学*2」の造語を作って表現することで、その必要性を訴えられたと考えます。

*2「産産官学」という造語は、「産」=県内企業、「産」=県外のイノベーション企業、「官」=行政機関、「学」=教育研究機関を意味している。地域の持続的な発展・イノベーションのためには地域の力と新たな力の融合が必要だと考えており、それらを促す座組を現している。

これは僕自身が新潟進出当時に欲しかった仕組みでもあります。当時の僕がしたような新卒っぽい行動などが無くても、木山さんに理解してもらえたように、フラットなところから実力やサービスで話ができて、ちゃんと評価してもらえるような場所を作る、そんな意識が働いているんだと思います。

こうして、新潟に進出してから約1年が経つ頃には、僕の使命やミッションだと考える「地域を戦略にする」への意識が固まっていましたね。日本の各地方にはどんな特色と良さがあるのか、BtoC向けに観光情報などはたくさん発信されているのに、BtoB向けの資料では「都心とのアクセス」や「土地の補助率」など数字やお金のことばかり。
この場所なら、どんなビジネスが成り立ちやすい、などの言わばBtoB版の『観光情報誌』を作るようなことを打ち出していけば、眠っているアセットを掘り起こすことにつながると考えます。

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使命が見えつつあった2年目

ーー既に石川さんの最大ミッションが明確になった状態から突入したIターン2年目。石川さんは新潟という地をどのように捉え、どんなことをされていたのでしょうか?

石川翔太さん:新潟に進出して2度目の春を迎える頃、「産産官学Fest」が開催されました。これがまさにNINNOの基軸へと繋がった気がして、理想構造へと明確に前進したタイミングだったと思います。
地方自治体、県内の企業、県外の企業、教育研究機関、それぞれが集まり、課題についてフラットに話し合う。まさに「産産官学」構造のシンボリックな動きが初めて取れたものでした。

その後から、アントレプレナーシップやDXの領域以外にも、I・Uターン促進や県外企業の新潟進出誘致などにも携わらせていただくようになりました。

新潟って、僕は「60人」だと思っているんです。新潟のような80万人規模の都市だと、60人のキーマンに出会い、さらにその中で、いつでも相談し同じ未来を目指せる仲間といえる10人と出会えたら、自分のやりたい構想などがスムーズに進み出すように感じています。
それは実際に僕自身が、木山さんやハードオフ社の山本太郎さんらとの出会いによって、今に至っていることの経験から得た感覚になります。
しかし、同時に「だからこそ、結局は人」と言うこともできますよね。新潟は、東京と比べて圧倒的にコミュニティが狭いからこそ、自分のために顔を立ててくれた人に恥を欠かせられない。一つ一つがやり直しの利かない真剣勝負といった、後がない感覚です。(といっても鬼気迫る感覚でもないですが)目の前の出会いに対する姿勢から、信用が積み重なっていきますよね。
イードアの僕とNINNOの僕が、掛け算として現れてきたのが2年目だったように思います。
県のIT企業誘致アンバサダーの就任や、各種プロジェクトの動きなど、毎月何かがあるような状態でした。一つの事を為す毎に、それが循環していって、本当に有り難い限りですよね。

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ーーそんな中で、壁や課題に直面したり、軌道修正を迫られたりすることなどはなかったのでしょうか。

石川翔太さん:それは常にですね。やはり、1人、1社で地域の盛り上がりは成し得ないので、修正というよりも流れを読む方が意識していることですね。

何が新潟にとって意味があることなのか、必要なことなのかをよく読んで、考え続けて。
舵取りは大事だけど、大きく波を切るようなことはしないで、流れに逆らわない。
舵を大きく切るって体力の消耗も激しいし、逆に流れに乗れていなかった証拠でもあると思うので、むしろ初期の段階で新潟という川の流れにうまく乗れるように、細かい舵取りに神経を使っていました。あとは順当な流れの通りに、次なる備えを用意している感じです。

3年が経ち、新潟との向き合い方

ーーでは、3年目が終わって4年目に突入した現在、新潟の未来を見据えた石川さんの視点を教えてください。

石川翔太さん:3年目の昨年、NINNOとしての動きをより高めていくために、木山産業の執行役員に就任いたしました。さらには、プライベートでは、結婚して家庭を持ち、子育てに奔走するようになりました。
そんなわけで、この先も新潟に定住していくという覚悟が固まりつつあった3年目でした。

また、最近ではNINNOで「中学生プログラミング教室」を開催したり、「新潟県教育の日」記念イベントでのパネルディスカッションにパネリストとして呼んでいただいたりもしました。
自分に子どもが生まれたからこそ、危機感にも近いような当事者意識を持って新潟の教育に向き合うようになってきたんです。

私自身、これだけ新潟のイノベーションに携わらせていただきながら、「やっぱ教育は東京だよね」なんて考えを持っていたら格好悪いじゃないですか。地方だからこそ、子供の可能性をどう親が広げてあげられるかが重要で、もっと子どもを主役に考えていかないといけないと思っています。

また、仕事が好きな人やイノベーターこそ、子供に関することにはハマるのではないかと思っています。現に、私も子育てをする中で、日々の変化や多くの解決すべき課題に楽しさを感じています。だからこそ、NINNOと教育の親和性は高いと思いますね。
そういった意味で、子育て・教育にイノベーションを起こし、さらに「地方って面白いんだぜ」ということを伝えていきたいですね。

ーーここまで伺った、石川さんの新潟との向き合い方のお話を踏まえて、現在はどのように新潟を捉えているのでしょうか?

石川翔太さん:今はもう新潟のことが完全に自分事になっています。
自分の子供が大きくなった時に、新潟の発展を見て「親父何してたの?イノベーションしてたんじゃないの?」って言われたくないですもんね(笑)
むしろ、いい意味で鼻にかけて言われるくらいに我が子が僕自身を超越したイノベーターになってくれたら嬉しいですけどね。それで「おまえのその姿になる礎をおれがつくったんだぞ」とこっそり思うような。
新潟や日本の地方と言われる場所の面白い未来を構想して、親子で対話をヒートアップさせられるような、そんな将来を思い描きながら未来に寄与していきたいですね。

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プロフィール

石川 翔太 Ishikawa Shota
1988年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学法学部卒業後、株式会社イードアにてスタートアップ・中小企業・大手企業への新しい事業のためのコンサルティングをはじめ、行政・学校法人へイノベーションをキーワードにした事業プロデュース業務(オープンイノベーション/新規事業・事業創出/DX)に従事。2020年より「戦略的地域選択」をキーワードに地域とイノベーションの持続可能な融合をもたらすための活動を進行中。自身が開発した地域企業向けDXプログラムは2023年に中小企業白書へモデル事例として掲載される。


・新潟県企業誘致アンバサダー
・経済産業省地域新産業創出事業採択拠点NINNO開発
・令和4年度経済産業省地域DX促進活動支援事業 新潟県DX推進プラットフォーム立ち上げ/プログラム企画
・新潟フードイノベーションコミュニティFooin立ち上げ

 

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